一昨日の土曜日、「ヒマな女の日常。」のなみの介さんからお誘いいただき
とっちんはオフ会に参加してまいりました^^
最初、らぼっちも参加する予定にしていたのですが
なんとその日ダブルブッキングしていたということが4日前に発覚し、行けなくなったのです
なみの介さん、ご迷惑をおかけしましたm(__)m
ということで、いつもはおまけのとっちんが大きい顔をして行ったのでした(笑)
街に出るのは久々なので、雨だしお店も知らないので早めに出かけることに
電車に乗るのも久しぶり、台風が来るってーのに混んでたな~
ダイエーを曲がったのに、案の定お店がわからず傘をさしたまま携帯で調べました
なぁ~んだ、後30mほど歩けばよかったんだ・・・^^;
「旬家 はちどり」さんです
どきどきしながら階段を上って案内してもらうと
ありゃ、一番乗りでした^^;
すぐにさんちゃんさんがいらして
ひとしきりお店の場所とオフ会の名前で盛り上がりました
しばらくするとぞろぞろとお集まりです^^
お久しぶりの方、初めましての方、いつもど~もの方、わいわいと賑やかです
おや、向かいの席にはmamさん
とっちんの皺を増やそうという魂胆のようです(あは、違います、偶然です)
いやん、隣はパルママさんです
あ~ん、いつものアホやバカが出せない、冷静に冷静に。。
どなたかがおっしゃってたな、女子会みたいだと♪
そうなんです、今回男性はお二人と息子っちだけ
あ~、ここにもはるか昔に女子を卒業したハンニャがおったな(笑)
なみの介さんのご挨拶で始まりです
乾杯~☆ お、むこうのテーブルはもう飲んでる^^
参加者の方々は・・・
幹事をしていただいた「ヒマな女の日常。」のなみの介さん
「くろさん亭」のくろさん
「クロの足跡vol_2」のクロさん
「さほりん日記」のさほりん(承認制)
「さんちゃんのライフらいふ-Ⅱ」さんちゃんさん
「たまごの熊本みしゅらん」のたまごさんと彼女さん
「コモレビ」のともっちさん
「みずほモータープールの管理人パセリの日記」のパセリさん
「Nobody knows -- my life with a blind cat --」のパタさん
「ランチしましょ♪」の春chさん
「ミカンのはなうた日記」のパルママさん
「手のじ行くバイ」のmamさん
「YUKAMASA」のYUKAさんとMASAさんと息子っち
「熊本のおいしい食べ物」の夢子さん
そして、途中から参加の 「食う ま!もと情報局(熊本)」のゆっき~さん
でした♪
最初から話も弾んで、写真はやっとこさで撮ったものばかり
肝心のところが抜けているような・・・・ま、いいか(笑)
お料理の名前?それもわかりません^^;

食べてる最中もパタさんのこの日のお話で盛り上がること!
某放送局の裏側を聞いて、いつもは見たことない日曜日の放送を思いっきり見てしまった
なんか違和感を感じながらも納得しつつ(シナリオが見える感じで)苦笑い
こんなふうになっていたのね~と^^;
ささ話は戻って、蒸し鍋の火入れ前です
この鍋がタジン鍋かどうかもとっちんにはよくわかりません(恥・・)
お刺身、何がのっていたかいな?
あ、茶碗蒸しはトマトとチーズが入ってました、珍しいっす^^

いや~、楽しいと時間がたつのが早い!!
おしゃべりしてると食べるのもたいへん^^
この焼き魚、煮卵の大きさの違いでも盛り上がる
でもちょっとこれってどうよ^^;

蒸し物出来上がり、でもとっちんは他のを食べるのに忙しくて見ただけ(笑)
も~、自分の前のお料理が減っていかないぞ
みんないつ食べてたんだろう・・・
とっちんはオフ会に参加してまいりました^^
最初、らぼっちも参加する予定にしていたのですが
なんとその日ダブルブッキングしていたということが4日前に発覚し、行けなくなったのです
なみの介さん、ご迷惑をおかけしましたm(__)m
ということで、いつもはおまけのとっちんが大きい顔をして行ったのでした(笑)
街に出るのは久々なので、雨だしお店も知らないので早めに出かけることに
電車に乗るのも久しぶり、台風が来るってーのに混んでたな~
ダイエーを曲がったのに、案の定お店がわからず傘をさしたまま携帯で調べました
なぁ~んだ、後30mほど歩けばよかったんだ・・・^^;
「旬家 はちどり」さんです

どきどきしながら階段を上って案内してもらうと
ありゃ、一番乗りでした^^;

すぐにさんちゃんさんがいらして
ひとしきりお店の場所とオフ会の名前で盛り上がりました
しばらくするとぞろぞろとお集まりです^^
お久しぶりの方、初めましての方、いつもど~もの方、わいわいと賑やかです
おや、向かいの席にはmamさん
とっちんの皺を増やそうという魂胆のようです(あは、違います、偶然です)
いやん、隣はパルママさんです
あ~ん、いつものアホやバカが出せない、冷静に冷静に。。
どなたかがおっしゃってたな、女子会みたいだと♪
そうなんです、今回男性はお二人と息子っちだけ
あ~、ここにもはるか昔に女子を卒業したハンニャがおったな(笑)
なみの介さんのご挨拶で始まりです

乾杯~☆ お、むこうのテーブルはもう飲んでる^^

参加者の方々は・・・
幹事をしていただいた「ヒマな女の日常。」のなみの介さん
「くろさん亭」のくろさん
「クロの足跡vol_2」のクロさん
「さほりん日記」のさほりん(承認制)
「さんちゃんのライフらいふ-Ⅱ」さんちゃんさん
「たまごの熊本みしゅらん」のたまごさんと彼女さん
「コモレビ」のともっちさん
「みずほモータープールの管理人パセリの日記」のパセリさん
「Nobody knows -- my life with a blind cat --」のパタさん
「ランチしましょ♪」の春chさん
「ミカンのはなうた日記」のパルママさん
「手のじ行くバイ」のmamさん
「YUKAMASA」のYUKAさんとMASAさんと息子っち
「熊本のおいしい食べ物」の夢子さん
そして、途中から参加の 「食う ま!もと情報局(熊本)」のゆっき~さん
でした♪
最初から話も弾んで、写真はやっとこさで撮ったものばかり
肝心のところが抜けているような・・・・ま、いいか(笑)
お料理の名前?それもわかりません^^;


食べてる最中もパタさんのこの日のお話で盛り上がること!
某放送局の裏側を聞いて、いつもは見たことない日曜日の放送を思いっきり見てしまった
なんか違和感を感じながらも納得しつつ(シナリオが見える感じで)苦笑い
こんなふうになっていたのね~と^^;
ささ話は戻って、蒸し鍋の火入れ前です
この鍋がタジン鍋かどうかもとっちんにはよくわかりません(恥・・)

お刺身、何がのっていたかいな?
あ、茶碗蒸しはトマトとチーズが入ってました、珍しいっす^^


いや~、楽しいと時間がたつのが早い!!
おしゃべりしてると食べるのもたいへん^^
この焼き魚、煮卵の大きさの違いでも盛り上がる
でもちょっとこれってどうよ^^;


蒸し物出来上がり、でもとっちんは他のを食べるのに忙しくて見ただけ(笑)

も~、自分の前のお料理が減っていかないぞ
みんないつ食べてたんだろう・・・
あ、他の人のブログでデザートが出てるっ!!
いつ来たの?何だったの?これも食べてな~い!(笑)
初めましての方ともお話できました、面白かった~
もっといろんなお話がしたかったけど、時間があっという間に過ぎていってしまいました
あまりお話できなかった方、ごめんなさいです
次の機会には押しかけますので、よろしく^^v
お開きになってお店の表で名残り惜しむように立ち話
皆さん、またお会いしたいですね^^
この日もお土産をたくさんいただきました

食べて飲んで、運動して、怪我したら貼っての・・・フルコースです(笑)
ありがとうございましたm(__)m
この後、パタさんの歌を聞きに二次会のカラオケに繰り出しました
パタさんだけじゃなく、みんな歌うまーーい♪
飲み物ひとつで盛り上がるというテンション
ゆっき~さん、違う意味でウケル~^^
ここでの楽しい2時間もまたたく間に過ぎて、オオトリはもちろんパタさん
予選会のステージを再現してもらいました、よかった~☆
そうして酔いしれながらカラオケ店を後にしたのでした
なみの介さん、いろいろお世話になりました
すご~く楽しかったです♪
それからパタさん、最後の最後までありがとうございました
約束のブツ、必ずや献上つかまつりまするm(__)m
こうして最年長、おまけで参加のオバサンは皆さんによくしていただいて
オフ会、ルンルンで(古いってか?)帰ったのです^^
先に帰っていたらぼっちがすぐさま聞きました「楽しかった?」
「うん!!」、思いっきり頷いたとっちんでした♪

<旬家 はちどり>
[所在地]熊本市下通1-2-10
[TEL]096-355-7818
HPはコチラ
明日は台風が本土に接近します
明日楽しみにしていた現地研が中止になりました
九州へ影響がある台風って何年ぶりだろう
自然に物申しても仕方ありませんが
雨や風はほどほどにお願いしますね^^;
特に関東東北地方は避けて通過願います
荒尾市に来るたびに気になっていた「宮崎兄弟の生家」の案内看板♪
実は大きな勘違いをしていたことに気づきました
飯塚に九州の炭坑王と呼ばれた伊藤伝右衛門がいますが
この宮崎兄弟はこの荒尾の地での炭坑王かと思っていたのです、大バカ!
あぁ、お恥ずかしい^^;
「私、歴史はわからん」と宣っていた姪っ子に大口はたたけません^^;
父や兄の生き方の影響を受けながら自由平等の実現を目指した
宮崎兄弟のお勉強をちょっとばかりしてみましょうか
生家への入口、資料館は門を入ってすぐ左です
庭はきれいに手入れがされています
宮崎家は12人の子がいましたが早くに亡くなった子も多く
世に知られた宮崎兄弟とは次の四兄弟のことです
<宮崎八郎(はちろう)>自由民権に散った天性の革命児
二男 嘉永4年(1851)-明治10年(1877)4月6日 27歳
元冶元年(1864)、父と長州征伐のため出陣の際に元服。
時習館に学び、明治3年上京遊学。
明治新政府の専制政治への怒りから反権力行動を開始。
中江兆民訳の『民約論』に感銘し、明治8年自由民権思想をかかげ
植木学校を設立するが、県から僅か半年で閉校を命じられる。
民権党の同志たちと西南の役で協同隊を組織し戦うが、八代の萩原堤で戦死。
自由と平等を愛する兄弟の精神的原点となる。
<宮崎民蔵(たみぞう)>
土地復権を生涯の使命とした哲人
六男 慶応元年(1865)5月20日-昭和3年(1928)7月15日 64歳
明治18年上京して中江兆民の仏学塾に入るが病の為に帰郷。
農村の貧しさをみて土地制度に疑問を抱き
土地の所有は人類の基本的人権のひとつと気づく。
その後、土地の平均再配分をわが使命とし、35年土地復権同志会を組織。
全国を遊説するが、43年大逆事件で運動は中絶。
<宮崎彌蔵(やぞう)>
理想の国を中国革命にみた思想家
七男 慶応3年(1867)4月8日-明治29年(1896)7月4日 30歳
明治18年大阪・東京に遊学、中国を本拠地とした革命で理想の国を築くことを唱えた。
そのため自ら中国人になりきり、横浜の中国商館で頭髪を剃り
名も管仲甫と称し中国の言語・習俗の研究に励んだ。
<宮崎滔天(とうてん)>
孫文(中国革命の父)を助け、革命に挺身した侠の人
八男 明治3年(1871)12月3日-大正11年(1922)12月6日 51歳
兄彌蔵の説く革命的アジア主義に共感し、明治25年上海へ。
理想を同じくする孫文との出会い、30年宮崎家に孫文を招く。
38年7月に孫文と黄興の手を握らせ、留学生による中国同盟会を結成させた。
44年10月辛亥革命勃発後、革命同志を助けるため中国に渡り
孫文とデンバー号上で感激の対面をする。
まずは生家の方から回ってみましょう、こちらは無料です
家自体はそれほど大きくはなさそうです
ははは、といってもでかいか^^
庭への格子戸をくぐったところで、前を歩いていたとっちんと姪っ子が
素っ頓狂な声をあげました、「ぎゃぁ~、誰かおる!!」
部屋の中になにやら人影?
よくできた蝋人形でした^^
滔天と孫文の筆談の様子を再現しているものらしいです
孫文はこの家に二度訪問しています
もちろん資料館の方にも入りましたよ
スタッフの方が丁寧に説明してくださいました
(写真は接写しなければいいですよとのことでした)
説明を聞くうちに、ああ勘違いに気づいたんですけど^^;
でもね、あながち関係なくもなかったんです
何でらぼっちの中で伊藤伝右衛門と宮崎兄弟が結びついていたのか
伊藤伝右衛門の妻で大正三美人の一人と謳われた「柳原白蓮(びゃくれん)」が
宮崎滔天の息子宮崎龍介と駆け落ちし、当時一大センセーションを巻き起こしました
らぼっちの頭の中とは関係ないけど、こんなところでつながっていたんです^^
社会科の教科書のように硬い記事になってしまいました(いつものこと?)
いつの時代にも世を憂い、体制を変えようとする強い魂を持った若者がいたんですね
そういえば、この後、宮崎生家から徒歩2分くらいで
熟年にはヨダレもんのスポットがあるんです
県重要文化財の「浄業寺古塔群」
浄業寺は、小代氏の菩提寺として弁智上人により
建治2年(1275年頃)開かれたと伝えられています
古塔群の中には、光背を持つ仏像を彫り込んだ板碑や
左側から源頼家、源頼朝、源実朝の三代を追慕供養した無銘塔などがあります
古塔には風雨にも負けず、はっきり読み取れる見事な梵字♪
鎌倉時代の歴史ある貴重なものでしょうに
屋根も何もないんだけどいいのかな^^;
この浄業寺の境内には、もう一つ有名なものが
樹齢700年、幹周り約4.9m、高さ約28mの大イチョウ
枝にはたくさんの乳根(チチネ)といわれるる気根が出ていました
気付かなかったんだけど^^;
このイチョウは2本の木が途中で合体しているので、縁結びのイチョウとも呼ばれているそうです^^
姪っ子は、隣にある有明社の鳥居でしきりと石をのせようと真剣な表情
古塔を撮影していたら「おばちゃん、のったよ」と嬉しそうに飛んできました
すかさず、とっちんが「お願い事しながら投げた?」
「うん、のれと言いながら投げた」
「なら、願い事はかなったたい^^」
チャン、チャン!!
明日楽しみにしていた現地研が中止になりました
九州へ影響がある台風って何年ぶりだろう
自然に物申しても仕方ありませんが
雨や風はほどほどにお願いしますね^^;
特に関東東北地方は避けて通過願います
荒尾市に来るたびに気になっていた「宮崎兄弟の生家」の案内看板♪
実は大きな勘違いをしていたことに気づきました
飯塚に九州の炭坑王と呼ばれた伊藤伝右衛門がいますが
この宮崎兄弟はこの荒尾の地での炭坑王かと思っていたのです、大バカ!
あぁ、お恥ずかしい^^;
「私、歴史はわからん」と宣っていた姪っ子に大口はたたけません^^;

父や兄の生き方の影響を受けながら自由平等の実現を目指した
宮崎兄弟のお勉強をちょっとばかりしてみましょうか
生家への入口、資料館は門を入ってすぐ左です
庭はきれいに手入れがされています

宮崎家は12人の子がいましたが早くに亡くなった子も多く
世に知られた宮崎兄弟とは次の四兄弟のことです

<宮崎八郎(はちろう)>自由民権に散った天性の革命児
二男 嘉永4年(1851)-明治10年(1877)4月6日 27歳
元冶元年(1864)、父と長州征伐のため出陣の際に元服。
時習館に学び、明治3年上京遊学。
明治新政府の専制政治への怒りから反権力行動を開始。
中江兆民訳の『民約論』に感銘し、明治8年自由民権思想をかかげ
植木学校を設立するが、県から僅か半年で閉校を命じられる。
民権党の同志たちと西南の役で協同隊を組織し戦うが、八代の萩原堤で戦死。
自由と平等を愛する兄弟の精神的原点となる。
<宮崎民蔵(たみぞう)>
土地復権を生涯の使命とした哲人
六男 慶応元年(1865)5月20日-昭和3年(1928)7月15日 64歳
明治18年上京して中江兆民の仏学塾に入るが病の為に帰郷。
農村の貧しさをみて土地制度に疑問を抱き
土地の所有は人類の基本的人権のひとつと気づく。
その後、土地の平均再配分をわが使命とし、35年土地復権同志会を組織。
全国を遊説するが、43年大逆事件で運動は中絶。
<宮崎彌蔵(やぞう)>
理想の国を中国革命にみた思想家
七男 慶応3年(1867)4月8日-明治29年(1896)7月4日 30歳
明治18年大阪・東京に遊学、中国を本拠地とした革命で理想の国を築くことを唱えた。
そのため自ら中国人になりきり、横浜の中国商館で頭髪を剃り
名も管仲甫と称し中国の言語・習俗の研究に励んだ。
<宮崎滔天(とうてん)>
孫文(中国革命の父)を助け、革命に挺身した侠の人
八男 明治3年(1871)12月3日-大正11年(1922)12月6日 51歳
兄彌蔵の説く革命的アジア主義に共感し、明治25年上海へ。
理想を同じくする孫文との出会い、30年宮崎家に孫文を招く。
38年7月に孫文と黄興の手を握らせ、留学生による中国同盟会を結成させた。
44年10月辛亥革命勃発後、革命同志を助けるため中国に渡り
孫文とデンバー号上で感激の対面をする。
まずは生家の方から回ってみましょう、こちらは無料です
家自体はそれほど大きくはなさそうです
ははは、といってもでかいか^^

庭への格子戸をくぐったところで、前を歩いていたとっちんと姪っ子が
素っ頓狂な声をあげました、「ぎゃぁ~、誰かおる!!」

部屋の中になにやら人影?
よくできた蝋人形でした^^
滔天と孫文の筆談の様子を再現しているものらしいです
孫文はこの家に二度訪問しています

もちろん資料館の方にも入りましたよ
スタッフの方が丁寧に説明してくださいました
(写真は接写しなければいいですよとのことでした)


説明を聞くうちに、ああ勘違いに気づいたんですけど^^;
でもね、あながち関係なくもなかったんです
何でらぼっちの中で伊藤伝右衛門と宮崎兄弟が結びついていたのか

伊藤伝右衛門の妻で大正三美人の一人と謳われた「柳原白蓮(びゃくれん)」が
宮崎滔天の息子宮崎龍介と駆け落ちし、当時一大センセーションを巻き起こしました
らぼっちの頭の中とは関係ないけど、こんなところでつながっていたんです^^
社会科の教科書のように硬い記事になってしまいました(いつものこと?)
いつの時代にも世を憂い、体制を変えようとする強い魂を持った若者がいたんですね

そういえば、この後、宮崎生家から徒歩2分くらいで
熟年にはヨダレもんのスポットがあるんです
県重要文化財の「浄業寺古塔群」

浄業寺は、小代氏の菩提寺として弁智上人により
建治2年(1275年頃)開かれたと伝えられています
古塔群の中には、光背を持つ仏像を彫り込んだ板碑や

左側から源頼家、源頼朝、源実朝の三代を追慕供養した無銘塔などがあります
古塔には風雨にも負けず、はっきり読み取れる見事な梵字♪

鎌倉時代の歴史ある貴重なものでしょうに
屋根も何もないんだけどいいのかな^^;
この浄業寺の境内には、もう一つ有名なものが
樹齢700年、幹周り約4.9m、高さ約28mの大イチョウ

枝にはたくさんの乳根(チチネ)といわれるる気根が出ていました

気付かなかったんだけど^^;
このイチョウは2本の木が途中で合体しているので、縁結びのイチョウとも呼ばれているそうです^^
姪っ子は、隣にある有明社の鳥居でしきりと石をのせようと真剣な表情
古塔を撮影していたら「おばちゃん、のったよ」と嬉しそうに飛んできました

すかさず、とっちんが「お願い事しながら投げた?」
「うん、のれと言いながら投げた」
「なら、願い事はかなったたい^^」
チャン、チャン!!
<宮崎兄弟資料館>
[場所]荒尾市荒尾949-1
[電話]0968-63-2595
[開館時間]9:30~17:00
[休館日]月曜・祝日の翌日
[入館料]高校生以上210円 小中学生100円
[アクセス]地図はコチラ
原発1号機の海水注入が一時中断したとされる問題
国会でもあれだけ時間を割いて質疑応答されていましたが
えっ、なんて??夕方のニュースを見てびっくり!
実際には停止されず現場の判断で注水が継続していたとのこと
おいおい、何でもっと早く報告、連絡を上げないの
怖くてできなかったのか??
何が真実なのか、何を信じたらよいのか、国民もマスコミも振り回されっぱなし!
全てにおいて東電はリスク管理ができていませんね
それとも自民党の策略か^^;
国会で時間が浪費されたことだけは事実のようです、いつものことか・・・
さて、荒尾市の続きです♪
5、6世紀頃の荒尾市辺りは、肥後国というよりも、北部九州一帯の古代文化圏であったようです
その時代のお勉強にちょいと行ってきました
荒尾市北部、水田と諏訪川に挟まれるように「三の宮神社」があります
遠目に見ると大きな木がもっこりしていたのですぐに発見!
姪っ子は鳥居のうえの石が気になってしょうがないみたい^^;
この神社はなんと、荒尾市唯一の前方後円墳である「三ノ宮古墳」を
平らに削り建てられたそうです
そんなことしてよかったのかな^^;
境内に入って驚いたのが、御神木が無惨にも倒れていたことです
黄色のテープで囲まれていて、まるで事件現場みたい^^;
その奥に見える小さな小屋が古墳に関係のある方が納められています
阿蘇溶結凝灰岩を用いて武装した兵士の上半身を丸彫りした「石人」です
兜をかぶり、短甲(鎧)を身につけ、赤い顔料で彩色されている
と書いてありますが、よくわかりません^^;
この上半身を墓から出して埋められていたようです
有力豪族の墓でしょうから、死後も守ってもらいたかったのでしょうね
この神社をぐるっと一回り♪
四面に蓮華座に座る仏像が力強く彫られている「四方仏」とよばれる石造物
ん~、ピントがネットに合ってしまう^^;
拝殿も、本殿自体もいたって普通♪
というよりもシンプルすぎるくらい質素な神社ですよ
でもね、でもね^^
この神社で最も驚かされたのはこれこれ!
本殿の見事な彫刻、いかがですか
国会でもあれだけ時間を割いて質疑応答されていましたが
えっ、なんて??夕方のニュースを見てびっくり!
実際には停止されず現場の判断で注水が継続していたとのこと
おいおい、何でもっと早く報告、連絡を上げないの
怖くてできなかったのか??
何が真実なのか、何を信じたらよいのか、国民もマスコミも振り回されっぱなし!
全てにおいて東電はリスク管理ができていませんね
それとも自民党の策略か^^;
国会で時間が浪費されたことだけは事実のようです、いつものことか・・・
さて、荒尾市の続きです♪
5、6世紀頃の荒尾市辺りは、肥後国というよりも、北部九州一帯の古代文化圏であったようです
その時代のお勉強にちょいと行ってきました
荒尾市北部、水田と諏訪川に挟まれるように「三の宮神社」があります
遠目に見ると大きな木がもっこりしていたのですぐに発見!
姪っ子は鳥居のうえの石が気になってしょうがないみたい^^;

この神社はなんと、荒尾市唯一の前方後円墳である「三ノ宮古墳」を
平らに削り建てられたそうです
そんなことしてよかったのかな^^;

境内に入って驚いたのが、御神木が無惨にも倒れていたことです
黄色のテープで囲まれていて、まるで事件現場みたい^^;
その奥に見える小さな小屋が古墳に関係のある方が納められています

阿蘇溶結凝灰岩を用いて武装した兵士の上半身を丸彫りした「石人」です

兜をかぶり、短甲(鎧)を身につけ、赤い顔料で彩色されている
と書いてありますが、よくわかりません^^;

この上半身を墓から出して埋められていたようです
有力豪族の墓でしょうから、死後も守ってもらいたかったのでしょうね
この神社をぐるっと一回り♪
四面に蓮華座に座る仏像が力強く彫られている「四方仏」とよばれる石造物

ん~、ピントがネットに合ってしまう^^;

拝殿も、本殿自体もいたって普通♪
というよりもシンプルすぎるくらい質素な神社ですよ

でもね、でもね^^
この神社で最も驚かされたのはこれこれ!
本殿の見事な彫刻、いかがですか


この魚や馬、波、雲?の立体感
そして補修はしたのでしょうが、鮮やかな獅子の色彩

これだったら大分の神社にも引けをとらないね、と二人で感動♪

田舎の神社と思っていましたが、いやー新鮮な驚きがありました
三の次は四ですよね^^v
ということで次に来たのが、海沿いの丘の上にある「四山神社」
本当は国道横に大きな駐車場があって、そこから上るのが常道なのですが
ナビを見たら境内まで道が続いていたので、一気に急坂を上っっちゃいました^^;
きっちり並べば10台位は停められそうな駐車場がありますよ

さてここは、虚空蔵菩薩が降臨された地として、1070年に菊池則隆がお堂を建立
その後、1605年に加藤清正により再建されましたが
明治時代の神仏分離政策により四山神社として発足しました

今でも、地元では「虚空蔵(こくんぞ)さん」の愛称で親しまれています
古くから商売繁盛・縁結び・交通安全の神として信仰を集め、春秋のお祭りでは
神社から福銭と呼ばれる五円玉をお借りして
翌年には倍にして返す「福授け」で大賑わいとのこと

それでこの五円玉の石像があるんですね^^

この神社はハートマークがたくさんありますよ
中でも一番大きかったのがこれ、燈籠だったかな?

境内の本殿には「四ッ山古墳」の案内看板もあります
ここもまずは古墳があって、虚空蔵菩薩降臨の信仰を生む霊地となったのでしょう

四ッ山古墳は横穴式石室墳ですが、封土はすでに失なわれ
石室を構築した巨石砂岩の用材のみが残されていました

この神社から南に丘を進むと島原湾唯一の沿岸大型灯台と呼ばれる
「三池港灯台」(通称 四ツ山灯台)があります


この日も曇り空だったので、残念ながら白い灯台が映えません

でも、眼下には荒尾競馬場や有明海の絶景を望むことができました
ここで荒尾の2大メロンパンの食べ比べをしたんだなぁ^^
姪っ子は文句も言わず、神社らーについてきます^^
<三の宮神社>
[所在地]荒尾市下井手
[アクセス]地図はコチラ
<四山神社>
[所在地]荒尾市大島818
[アクセス]地図はコチラ
東日本大震災の発生から1カ月の報道を新聞紙面で振り返る「震災報道展」が
4月12日から熊本市世安町の熊日本社内の新聞博物館で開催されていました
当初は5月14日までの予定、この報道展を知ったのはなんとその何日か前でした
21日まで延長されたとのことで、最終日に姪っ子を連れて行ってきました
熊日はじめ全国各地の新聞の号外や紙面が展示されていました
被災地の地元紙、河北新報や岩手日報の紙面も震災発生時から時系列で張り出されていました
1週間の報道の中で5日目には復興に向けての見出しがあるのを見て
停電のさなか、新聞の力は偉大だと改めて感じました
地元での記事は胸をえぐられるような怖さや悲しさが直に表現されていて見ていると苦しくなります
見学したのは開館すぐでしたが、後から後から人が入ってきました
誰もがそれぞれの想いで静かに見入る中、所々で鼻水を啜る音が聞こえます
自然災害の怖さや防災の準備に加えて原発問題や危機管理、そして経済問題などなど
考えても考えきれないくらいのたくさんの事項
一人ひとりが、地域が、国が、あってはならない人為的な災害にならないよう
あらゆる想定をして備えておきたいものです
最後に書くことになっていたアンケート、姪っ子もかなり時間をかけて書いていました
震災の新聞報道を目の当たりにしてなかっただろうけど
若い目にはこの大震災がどのように映ったのでしょうかね
さてその後、向かったのは荒尾♪
なぜかって?それは「FMKぐるっと熊本クイズラリー」の問題を見に(またかい^^;)
着いたのはちょうど昼時、三井グリーンランドの前

ランチをと入ったのが「SUI☆Cafe」さんです
あっちゃ~満席でした、でも他を探す気にもならなかったので待ちました
少し待って席に着くと、姪っ子が言いました
「おじちゃんと一緒じゃけ、お昼はラーメンかと思っとった」
ああ、そういえば姪っ子が熊本に住むようになった頃はラーメンが多かったな^^;
おじちゃん=ラーメンの方式か(笑)
メニューは・・
単品より絶対こっちでしょ^^
メインはこちらから選ぶようになっています
3人とも迷いに迷って決めました
まずは「SUI3種アミューズ」と「本日のサラダ、スープ」がやってきました
どちらかと言うと和のテイストです
ちょこちょこがまたよかったりします^^
らぼっちは「特性タルタルソースのチキン南蛮」をチョイス
パリっとした衣に卵たっぷりのタルタルソース、絶妙なバランスでした
姪っ子は「国産牛ミンチのチーズデミハンバーグ」
普通に美味しい、と言ってました^^
とっちんは「厚切りベーコンと旬野菜の和風パスタ」
パスタには珍しくごま油が使ってあったので思わず「ラーメン?」と言っちゃった
ほらほらと姪っ子やらぼっちに食べさせて共感を得ようとしていました
でも美味しかったのでペロリ^^
デザートはメニューから一人2種類選べます♪
やはりまたしても迷う3人(笑)
らぼっちは「きなこシフォン」と「さっぱりグレープフルーツゼリー」
ちっちゃーいケーキだと思っていたら結構大きかったのでびっくり
ふんわりと甘いシフォンと超さっぱりのゼリー、「我ながらいい取り合わせ♪」だって
とっちんは「マーブルショコラムース」と「バナナのクレープ」
きゃ、うさぎさんの顔が描いてある~、かっわいい♪
もちろん美味しかったのですが、とっちんのプレートにだけスプーンがついてなかった(><)
ムースをフォークでどうやって食べろって言うの^^;
姪っ子は「チョコケーキ」と「チョコプレッソアイス」
おーおーダブルでチョコかいな、芸がないな(笑)
あれ、今よく見ればアイスの上にもスマイルが描かれているじゃないか~い
ハートのお目々に気がつかないとは、あいつも疲れているのかな?
リフレッシュにどこかへ連れて行って!と言ってたけど
熟年の行くところだもん、報道展や神社仏閣じゃ~ね~^^;
で、「クイズラリー」の問題を見に「ふくやまベーカリー」さんに
おや?新しく建て変わったようです
もちろんクイズだけじゃなく、メロンパンは買いますよ
ランチでお腹いっぱいなのに、「出来立てを食べなくちゃ」と思っていたところ
「俺の好きな万幸堂のメロンパンと食べ比べをしよう」と言うらぼっち
それじゃと向かった「万幸堂」さん
店頭にはメロンパンがほとんどない^^;
それもそのはず、予約がまとめて袋に入れてありました
あ゛ーーーーー、肝心のメロンパンの写真がない!!(泣)
5個ずつ買ったのに、気付いたら全部お腹の中でした^^;
仕方がないので文章で表現します
色はふくやまベーカリーのメロンパンの方が濃いです
表面のカリサク感はふくやまの方が上かな
中は甲乙付け難いくらいふんわりしています
味は万幸堂のメロンパンが若干甘くて熟年好みでした
たいして舌が肥えているわけでもないのに、食べ比べなんておこがましいことです
メロンパンといったら荒尾と言われるほどになったのは
この2大パン屋さんの切磋琢磨があったからこそでしょう
これからも頑張って欲しいですね♪
4月12日から熊本市世安町の熊日本社内の新聞博物館で開催されていました
当初は5月14日までの予定、この報道展を知ったのはなんとその何日か前でした
21日まで延長されたとのことで、最終日に姪っ子を連れて行ってきました

熊日はじめ全国各地の新聞の号外や紙面が展示されていました

被災地の地元紙、河北新報や岩手日報の紙面も震災発生時から時系列で張り出されていました
1週間の報道の中で5日目には復興に向けての見出しがあるのを見て
停電のさなか、新聞の力は偉大だと改めて感じました
地元での記事は胸をえぐられるような怖さや悲しさが直に表現されていて見ていると苦しくなります
見学したのは開館すぐでしたが、後から後から人が入ってきました
誰もがそれぞれの想いで静かに見入る中、所々で鼻水を啜る音が聞こえます
自然災害の怖さや防災の準備に加えて原発問題や危機管理、そして経済問題などなど
考えても考えきれないくらいのたくさんの事項
一人ひとりが、地域が、国が、あってはならない人為的な災害にならないよう
あらゆる想定をして備えておきたいものです
最後に書くことになっていたアンケート、姪っ子もかなり時間をかけて書いていました
震災の新聞報道を目の当たりにしてなかっただろうけど
若い目にはこの大震災がどのように映ったのでしょうかね
さてその後、向かったのは荒尾♪
なぜかって?それは「FMKぐるっと熊本クイズラリー」の問題を見に(またかい^^;)
着いたのはちょうど昼時、三井グリーンランドの前

ランチをと入ったのが「SUI☆Cafe」さんです

あっちゃ~満席でした、でも他を探す気にもならなかったので待ちました
少し待って席に着くと、姪っ子が言いました
「おじちゃんと一緒じゃけ、お昼はラーメンかと思っとった」
ああ、そういえば姪っ子が熊本に住むようになった頃はラーメンが多かったな^^;
おじちゃん=ラーメンの方式か(笑)
メニューは・・

単品より絶対こっちでしょ^^
メインはこちらから選ぶようになっています

3人とも迷いに迷って決めました
まずは「SUI3種アミューズ」と「本日のサラダ、スープ」がやってきました

どちらかと言うと和のテイストです
ちょこちょこがまたよかったりします^^
らぼっちは「特性タルタルソースのチキン南蛮」をチョイス

パリっとした衣に卵たっぷりのタルタルソース、絶妙なバランスでした
姪っ子は「国産牛ミンチのチーズデミハンバーグ」

普通に美味しい、と言ってました^^
とっちんは「厚切りベーコンと旬野菜の和風パスタ」

パスタには珍しくごま油が使ってあったので思わず「ラーメン?」と言っちゃった
ほらほらと姪っ子やらぼっちに食べさせて共感を得ようとしていました
でも美味しかったのでペロリ^^
デザートはメニューから一人2種類選べます♪

やはりまたしても迷う3人(笑)
らぼっちは「きなこシフォン」と「さっぱりグレープフルーツゼリー」

ちっちゃーいケーキだと思っていたら結構大きかったのでびっくり
ふんわりと甘いシフォンと超さっぱりのゼリー、「我ながらいい取り合わせ♪」だって
とっちんは「マーブルショコラムース」と「バナナのクレープ」

きゃ、うさぎさんの顔が描いてある~、かっわいい♪
もちろん美味しかったのですが、とっちんのプレートにだけスプーンがついてなかった(><)
ムースをフォークでどうやって食べろって言うの^^;
姪っ子は「チョコケーキ」と「チョコプレッソアイス」

おーおーダブルでチョコかいな、芸がないな(笑)
あれ、今よく見ればアイスの上にもスマイルが描かれているじゃないか~い
ハートのお目々に気がつかないとは、あいつも疲れているのかな?
リフレッシュにどこかへ連れて行って!と言ってたけど
熟年の行くところだもん、報道展や神社仏閣じゃ~ね~^^;
で、「クイズラリー」の問題を見に「ふくやまベーカリー」さんに
おや?新しく建て変わったようです

もちろんクイズだけじゃなく、メロンパンは買いますよ

ランチでお腹いっぱいなのに、「出来立てを食べなくちゃ」と思っていたところ
「俺の好きな万幸堂のメロンパンと食べ比べをしよう」と言うらぼっち
それじゃと向かった「万幸堂」さん

店頭にはメロンパンがほとんどない^^;
それもそのはず、予約がまとめて袋に入れてありました

あ゛ーーーーー、肝心のメロンパンの写真がない!!(泣)
5個ずつ買ったのに、気付いたら全部お腹の中でした^^;
仕方がないので文章で表現します
色はふくやまベーカリーのメロンパンの方が濃いです
表面のカリサク感はふくやまの方が上かな
中は甲乙付け難いくらいふんわりしています
味は万幸堂のメロンパンが若干甘くて熟年好みでした
たいして舌が肥えているわけでもないのに、食べ比べなんておこがましいことです
メロンパンといったら荒尾と言われるほどになったのは
この2大パン屋さんの切磋琢磨があったからこそでしょう
これからも頑張って欲しいですね♪

<SUI☆Cafe>
[所在地]熊本県荒尾市下井手1616-67
[TEL]0968-66-1066
[営業時間] 11:00~23:00(L.O.22:30)
[定休日] 無休
[駐車場] 有
[禁煙・喫煙] 分煙
[アクセス]地図はコチラ
この春、実は前から計画していたことが二つありましたが、すっかり忘れておりました^^;
手のじのお二人からの情報がなかったら、たぶん時季を逃していたことでしょう♪
早速、二つの計画、いや二つの出会いをご紹介しましょう^^
一つ目はこちら
南阿蘇へオオルリシジミを観察に出かけました
オオルリシジミは、今では長野県北部と阿蘇でしか見られないようで
環境庁レッドデータブックの絶滅危惧I類、熊本県の特定希少野生動物にも指定されています
オオルリシジミはクララしか摂食しませんが、野焼き、放牧、採草により
クララがたくさん自生する環境が守られたと考えられています
また牛は、あまりの苦さにクララは食べませんしね^^
さて、道に迷うことなく牧場らしき場所に到着!
こんな看板もありました、ここで間違いないみたいですね
捕獲、殺傷したら100万円以下の罰金は読み取れました^^
今日はこいつを連れてきたので、走り回って脅かさないようにさせないとね
しばらく歩くと、どこからともなくヒラヒラと飛んできたオオルリシジミちゃん
近くのクララにふわりと止まりました
らぼっちが2枚撮って、もう一歩近づくと逃げちゃった
らぼっちは、これで満足していたのですが、とっちんが「私が撮る」
しばらくすると、またどこからともなくヒラヒラととっちんの後ろに舞い降りる
撮ってとばかりに、じっとしてますが、なかなか羽を広げてくれないみたい^^;
何枚か、近づいて撮ってるうちに
「私、オオルリシジミとお友達になったみたい♪」
と言って、振り返った顔はにんまり^^
最後のショットは距離10cmくらいだったそうです
だんだんと近づいていってるでしょ
写真は珍しく全てトリミングはしていませんから^^v
次に向かったのは、この日が「スズラン祭り」だった波野のスズラン自生地
なんだか賑やかなお囃子が聞こえていると思ったら
「中江岩戸神楽」保存会のメンバーが実演中でした
神楽は横目にスズランの丘へ
木柵に囲まれた範囲に自生しています
スズランて咲き始めの頃はほんとに愛らしい小さな花なんだね♪
でも花びらは開くと可憐さがなくなっちゃう感じ^^
女性もスズランも咲き始めが見頃かなと言ったのは誰かな、らぼっちか^^v
はいはい、あんたはもうおっさんだからね
ちょっとだけ愛らしさは残ってるかな^^
と、マクロ撮影に励んでいたら、神楽のほうがなにやら賑やかに
よく見ると、天高く設置された竹の上に登っているではないですか
おいおい、なにか?餅か?はでに撒いているではありませんか
慌てて、降りましたが時既に遅しで終了していました、残念^^
雨の予報でしたが、降られることもなかったし
南阿蘇、波野を満喫した熟年でしたとさ♪
手のじのお二人からの情報がなかったら、たぶん時季を逃していたことでしょう♪
早速、二つの計画、いや二つの出会いをご紹介しましょう^^

一つ目はこちら
南阿蘇へオオルリシジミを観察に出かけました
オオルリシジミは、今では長野県北部と阿蘇でしか見られないようで
環境庁レッドデータブックの絶滅危惧I類、熊本県の特定希少野生動物にも指定されています
オオルリシジミはクララしか摂食しませんが、野焼き、放牧、採草により
クララがたくさん自生する環境が守られたと考えられています
また牛は、あまりの苦さにクララは食べませんしね^^
さて、道に迷うことなく牧場らしき場所に到着!

こんな看板もありました、ここで間違いないみたいですね
捕獲、殺傷したら100万円以下の罰金は読み取れました^^

今日はこいつを連れてきたので、走り回って脅かさないようにさせないとね

しばらく歩くと、どこからともなくヒラヒラと飛んできたオオルリシジミちゃん
近くのクララにふわりと止まりました
らぼっちが2枚撮って、もう一歩近づくと逃げちゃった

らぼっちは、これで満足していたのですが、とっちんが「私が撮る」
しばらくすると、またどこからともなくヒラヒラととっちんの後ろに舞い降りる

撮ってとばかりに、じっとしてますが、なかなか羽を広げてくれないみたい^^;

何枚か、近づいて撮ってるうちに
「私、オオルリシジミとお友達になったみたい♪」
と言って、振り返った顔はにんまり^^

最後のショットは距離10cmくらいだったそうです
だんだんと近づいていってるでしょ
写真は珍しく全てトリミングはしていませんから^^v
次に向かったのは、この日が「スズラン祭り」だった波野のスズラン自生地
なんだか賑やかなお囃子が聞こえていると思ったら
「中江岩戸神楽」保存会のメンバーが実演中でした

神楽は横目にスズランの丘へ
木柵に囲まれた範囲に自生しています


スズランて咲き始めの頃はほんとに愛らしい小さな花なんだね♪

でも花びらは開くと可憐さがなくなっちゃう感じ^^

女性もスズランも咲き始めが見頃かなと言ったのは誰かな、らぼっちか^^v
はいはい、あんたはもうおっさんだからね
ちょっとだけ愛らしさは残ってるかな^^

と、マクロ撮影に励んでいたら、神楽のほうがなにやら賑やかに
よく見ると、天高く設置された竹の上に登っているではないですか

おいおい、なにか?餅か?はでに撒いているではありませんか

慌てて、降りましたが時既に遅しで終了していました、残念^^
雨の予報でしたが、降られることもなかったし
南阿蘇、波野を満喫した熟年でしたとさ♪

<スズラン自生地>
[所在地]阿蘇市波野大字波野3502-3
[アクセス]地図はコチラ
ある方のブログを見て、前から行きたい行きたいと思っていた店へ
先週、ようやく行ってまいりました
紹介していた方は、場所を明らかにしていないので
熟年のブログも、極秘にしておきたいと思います^^;
飯田山の登山でお腹が減りまくった二人が来たのはこちら♪
ちょうど12時頃だったので、数台の先客あり
こちらはライダーさん達にも知られた人気店で、この日も熟年のすぐ後に
4人のうら若き(10年くらい前なら)女性ライダー4人組が到着!
そそくさと下りて行くと、店の奥さんらしき方が、「予約していた方ですか」
「いえ、違います(もしかして満室?)」
すぐに案内してくれましたが、お客さんが多いという証しですね
案内された部屋?はこちら、ハウス小屋のような・・・^^;
小屋の下には池?後で聞いたら、マスを飼っていた池らしいです
小屋の中の屋根は暑さしのぎの寒冷紗
床は一応畳張りですが、板床が少ないか、朽ちるかしていて
歩く度に抜けそうな感じがするは、小屋全体が大きく揺れるは、で
最初は抜き足差し足で歩きました
慣れてくるとゆっさゆっさと揺らしながら歩いてましたけど^^;
例の4人組女性ライダーさんも隣の席に案内されて
「わぁ~、久しぶり」「ここの親子丼が最高!」等とわいわいやっております^^
熟年の注文は
「親子丼と地鶏タタキのセット」、「地鶏の炭火焼き」と「親子丼」の単品
まずタタキの登場♪
って、これでもかネギの大量ぶっかけで本体が見えません^^
上には少々にんにくがのっておりますよ
どうにか、掻きだして記念写真
早く食べたくなる光線を放出しまくってます^^
新鮮だし、タレがまた美味しい、ビールが欲しいね と幸せを噛みしめていたら
炭火焼きが、どかんと登場^^
地鶏は結構、ボリュームがあります
ちょっと強面の怪しい店主のおじさんが、「焼いたことあるやろ」
「ハイ・・・いえ、初めてなもんで」
ならばと、トングを取って、やおら焼き始めました^^
「皮とササミは焼きすぎたらいかん」とだけ言われ
手は動きつつも後ろの4人の女性ライダーさんの方が気になるご様子^^
「女ばっかだと、おっさんライダーがちょっかいだしてくるやろ」
「おれみたいなおっさんが一番やらしかけんな」
と場を和ませてくれると、あとは「適当に焼きな」と去っていった
楽しいおっさん店主でした^^
この皮は絶品でした 、塩でいただくのがGOOD!
そして写真はないけどササミがこれまた最高☆
さくさくとした食感なんですよ
にわかには信じられないでしょうが、本当に初めての体験です
いつもはとっちんがパッサパサのササミを出してくれるもんで(笑)
先週、ようやく行ってまいりました
紹介していた方は、場所を明らかにしていないので
熟年のブログも、極秘にしておきたいと思います^^;
飯田山の登山でお腹が減りまくった二人が来たのはこちら♪

ちょうど12時頃だったので、数台の先客あり
こちらはライダーさん達にも知られた人気店で、この日も熟年のすぐ後に
4人のうら若き(10年くらい前なら)女性ライダー4人組が到着!
そそくさと下りて行くと、店の奥さんらしき方が、「予約していた方ですか」
「いえ、違います(もしかして満室?)」
すぐに案内してくれましたが、お客さんが多いという証しですね
案内された部屋?はこちら、ハウス小屋のような・・・^^;
小屋の下には池?後で聞いたら、マスを飼っていた池らしいです

小屋の中の屋根は暑さしのぎの寒冷紗

床は一応畳張りですが、板床が少ないか、朽ちるかしていて
歩く度に抜けそうな感じがするは、小屋全体が大きく揺れるは、で
最初は抜き足差し足で歩きました
慣れてくるとゆっさゆっさと揺らしながら歩いてましたけど^^;
例の4人組女性ライダーさんも隣の席に案内されて
「わぁ~、久しぶり」「ここの親子丼が最高!」等とわいわいやっております^^
熟年の注文は
「親子丼と地鶏タタキのセット」、「地鶏の炭火焼き」と「親子丼」の単品

まずタタキの登場♪
って、これでもかネギの大量ぶっかけで本体が見えません^^
上には少々にんにくがのっておりますよ

どうにか、掻きだして記念写真
早く食べたくなる光線を放出しまくってます^^

新鮮だし、タレがまた美味しい、ビールが欲しいね と幸せを噛みしめていたら
炭火焼きが、どかんと登場^^
地鶏は結構、ボリュームがあります

ちょっと強面の怪しい店主のおじさんが、「焼いたことあるやろ」
「ハイ・・・いえ、初めてなもんで」
ならばと、トングを取って、やおら焼き始めました^^

「皮とササミは焼きすぎたらいかん」とだけ言われ
手は動きつつも後ろの4人の女性ライダーさんの方が気になるご様子^^
「女ばっかだと、おっさんライダーがちょっかいだしてくるやろ」
「おれみたいなおっさんが一番やらしかけんな」
と場を和ませてくれると、あとは「適当に焼きな」と去っていった
楽しいおっさん店主でした^^
この皮は絶品でした 、塩でいただくのがGOOD!

そして写真はないけどササミがこれまた最高☆
さくさくとした食感なんですよ
にわかには信じられないでしょうが、本当に初めての体験です
いつもはとっちんがパッサパサのササミを出してくれるもんで(笑)
山都町に行った際、確かまだ訪れていない石橋
それも水路橋があったことを思い出し寄ってみました
いやいやこれが・・・^^;
国道445号の案内には200mと書いてあったのに、ずんずん行ってしまうエアウェイブ
行き止まりの道路は工事中でダンプが行ったり来たり
それらしい川も見当たらず、どうなってんの(>_<)
とっちんは「ここだよ、もうここしかないから」と道を降りていきました
こんな時の行動力はたいしたもん^^
本当に200mのところにあったのですが、景色に溶け込みすぎてわかりにくい^^;
「立野橋」です
草にも負けずニョロにも負けず、ざっざっと進む頼もしいとっちん
水路の右側には日向往還の標柱がありました
どう見ても水路の左側の道が広いんですけど・・^^;
この立野橋は嘉永3年(1850年)に架橋
橋幅の半分が道路、半分が段下りで嘉永福良井手の水路になっていて
二つの目的で造られているのが特徴ということです
長さ30.3m、幅2.6m、高さは6m
石工棟梁は種山石工の宇市(勘五郎の兄)と記述したものもあり
4年後に造られた通潤橋建造のための試作品という説もあります
水を抜く穴はないけど、う~ん、そうかも^^;
ま、とにもかくにも、時代的には結構古い目鑑橋です
ちょっと覗いてみよう^^
ほぇ?ちょ、ちょっと形がへんじゃない?
なあんだ、セメントで補強されていたんだ^^;
ひと口に水路橋と言ってしまうけど
山都町でも通潤橋、金内橋そしてこの立野橋といろいろあるんだな~
それも水路橋があったことを思い出し寄ってみました
いやいやこれが・・・^^;
国道445号の案内には200mと書いてあったのに、ずんずん行ってしまうエアウェイブ
行き止まりの道路は工事中でダンプが行ったり来たり
それらしい川も見当たらず、どうなってんの(>_<)
とっちんは「ここだよ、もうここしかないから」と道を降りていきました
こんな時の行動力はたいしたもん^^
本当に200mのところにあったのですが、景色に溶け込みすぎてわかりにくい^^;
「立野橋」です

草にも負けずニョロにも負けず、ざっざっと進む頼もしいとっちん

水路の右側には日向往還の標柱がありました
どう見ても水路の左側の道が広いんですけど・・^^;
この立野橋は嘉永3年(1850年)に架橋
橋幅の半分が道路、半分が段下りで嘉永福良井手の水路になっていて
二つの目的で造られているのが特徴ということです
長さ30.3m、幅2.6m、高さは6m
石工棟梁は種山石工の宇市(勘五郎の兄)と記述したものもあり
4年後に造られた通潤橋建造のための試作品という説もあります

水を抜く穴はないけど、う~ん、そうかも^^;
ま、とにもかくにも、時代的には結構古い目鑑橋です

ちょっと覗いてみよう^^

ほぇ?ちょ、ちょっと形がへんじゃない?

なあんだ、セメントで補強されていたんだ^^;
ひと口に水路橋と言ってしまうけど
山都町でも通潤橋、金内橋そしてこの立野橋といろいろあるんだな~

<立野橋>
[所在地]上益城郡山都町金内
[アクセス]地図はコチラ
とっちんがなにやら調べてきて、「飯田山に登るよ。そして、地鶏食べに行くよ」
らぼっちは、「はい、は~い!」と返事するだけ^^
飯田山と言えば、横井小楠と坂本龍馬が四時軒から眺めた山♪
確か、そんなに高くもなかったよな
民家の間の狭い道路を入ってくると、到着したのはため池とゲートボール場に挟まれた
5台くらいは駐車できそうな飯田山登山口
車進入禁止の案内板の上に飯田山まで431.2m
なぁんだ、やはりたいしたことはないね^^v
上りだしてすぐに、十三丁という石碑に真新しい石仏発見
どうも上りだすとこれがだんだん減っていくわけかな
はい、どうもそのようです^^

でもこの急阪続きはどうしたものか、舗装はされているけど急過ぎでしょ
ものの100mもしないうちに息が上がってくる、まぁ残り300mくらいだろうから

舗装も途中からとぎれ、ようやくの胸突き八丁目は、千手観音様
この辺りで気づく、「あれっ、意外と遠いではないかい?」
それから頑張って上がっていると、四丁目辺りで大きな道に出た
はいっ?車で上がってこれたということ? そのようです^^;
結局、431.2mという数字は標高で、距離は1.5kmでした(>_<)
飯田山8合目から見下ろした風景、中央に見えるはパークドーム
はい、こちらが「飯田山常楽寺」です
この時はへばっていたので、常に楽しい気分ではなかったけれど、響きの言い名前♪
結局、登山口からの要した時間は約40分くらい、久しぶりにいい運動でした
石段の前に立って、「すごいね~、いいね~♪」
乱れ積み法と言うらしいのですが、乱れ積んだだけなら法はいらんと思いませんか^^;
乱れているので、階段幅もいい加減?
足が半分はみ出すくらいに狭い石段も、それがまたいいんですけど
常楽寺は平安時代の末期1140年頃、日羅開基と伝えられる天台宗の歴史ある寺院です
最盛期には300余名の学僧と数多くの坊があり、山中には往時の史跡が埋もれているそうです
江戸期には藩主細川公の勅願寺として、代々参詣がなされ国家安泰の祈願も行われました
明治期の「廃仏棄釈」により、衰退の道をたどりますが、現在では体験修行なども行っているようです
赤仁王様、ぶっとい眉毛にぱっちりお目々
あばら骨がみえてるのに、太鼓腹でした^^

いただけないのがこの仁王門の至る所に落書きの跡
落書きというより、彫りこんでるし
何々、昭和39年生まれ、熟年より少し若いほぼ同世代ではないか
若気の至りとはいえ、ここに来て見て恥じり、猛省してほしいものです
気持ち、ぼかしてあげましょう
この境内の雰囲気がまたまたたまりません^^
イチョウやクスの大木がそこ彼処に♪
本殿です
おーい、本殿をのぞき見しているのは誰じゃ
ご本尊の十一面観世音菩薩像は御開帳されていませんでした^^;
本殿の屋根上には九曜の紋が見えます
細川公の勅願寺だった証しですね
あぁ、これは無惨な石仏様、全て顔がありませぬ・・・
う~ん、近寄りがたい!
一枚だけ撮った写真、何か揺らいでませんか・・・ひょぇ~(>_<)
でもこの境内はどこから見ても、絵になりますね
あっ、梵鐘ですか
当然、叩かせていただきましたとも
ゴ~~~・・・ン
その響きは、飯田山の山肌ぬって麓へかけ下ったことでしょう
でも、アリ地獄は五月蝿いだろうね^^;

この境内の脇から山頂へ上がれるようで、山頂には神社と観音像があります
ここも秋はまたいいだろうな、と思った熟年二人なのでした
境内を下りようとしたとき、ソフトバンクのお父さんそっくりの太郎くんと再会
熟年が上り始めようとしたときにバイクの荷台に載ってきた太郎くんと対面していたのでした
じいちゃんも足は達者で、熟年二人をおいてさっさか下っていきます
熟年がようやく下りてきたとき、じいちゃんが今から歩いて東野まで帰るとのこと
何でですか?と聞いたら、バイクがパンクしてました
市内に帰るなら乗せてあげたかったんですが、今から反対の山都町方面へ向かわなければならないので
がんばってくださいと、見送るしかありませんでした
ごめんね、じいちゃん、太郎くんm(_ _)m
さて、次は昼も過ぎているのでお腹を満たしにいきましたとさ♪
らぼっちは、「はい、は~い!」と返事するだけ^^
飯田山と言えば、横井小楠と坂本龍馬が四時軒から眺めた山♪
確か、そんなに高くもなかったよな
民家の間の狭い道路を入ってくると、到着したのはため池とゲートボール場に挟まれた
5台くらいは駐車できそうな飯田山登山口

車進入禁止の案内板の上に飯田山まで431.2m
なぁんだ、やはりたいしたことはないね^^v
上りだしてすぐに、十三丁という石碑に真新しい石仏発見
どうも上りだすとこれがだんだん減っていくわけかな
はい、どうもそのようです^^


でもこの急阪続きはどうしたものか、舗装はされているけど急過ぎでしょ
ものの100mもしないうちに息が上がってくる、まぁ残り300mくらいだろうから


舗装も途中からとぎれ、ようやくの胸突き八丁目は、千手観音様
この辺りで気づく、「あれっ、意外と遠いではないかい?」
それから頑張って上がっていると、四丁目辺りで大きな道に出た
はいっ?車で上がってこれたということ? そのようです^^;
結局、431.2mという数字は標高で、距離は1.5kmでした(>_<)
飯田山8合目から見下ろした風景、中央に見えるはパークドーム

はい、こちらが「飯田山常楽寺」です
この時はへばっていたので、常に楽しい気分ではなかったけれど、響きの言い名前♪
結局、登山口からの要した時間は約40分くらい、久しぶりにいい運動でした

石段の前に立って、「すごいね~、いいね~♪」
乱れ積み法と言うらしいのですが、乱れ積んだだけなら法はいらんと思いませんか^^;

乱れているので、階段幅もいい加減?
足が半分はみ出すくらいに狭い石段も、それがまたいいんですけど

常楽寺は平安時代の末期1140年頃、日羅開基と伝えられる天台宗の歴史ある寺院です
最盛期には300余名の学僧と数多くの坊があり、山中には往時の史跡が埋もれているそうです

江戸期には藩主細川公の勅願寺として、代々参詣がなされ国家安泰の祈願も行われました
明治期の「廃仏棄釈」により、衰退の道をたどりますが、現在では体験修行なども行っているようです
赤仁王様、ぶっとい眉毛にぱっちりお目々
あばら骨がみえてるのに、太鼓腹でした^^


いただけないのがこの仁王門の至る所に落書きの跡
落書きというより、彫りこんでるし

何々、昭和39年生まれ、熟年より少し若いほぼ同世代ではないか
若気の至りとはいえ、ここに来て見て恥じり、猛省してほしいものです
気持ち、ぼかしてあげましょう
この境内の雰囲気がまたまたたまりません^^
イチョウやクスの大木がそこ彼処に♪

本殿です

おーい、本殿をのぞき見しているのは誰じゃ
ご本尊の十一面観世音菩薩像は御開帳されていませんでした^^;

本殿の屋根上には九曜の紋が見えます
細川公の勅願寺だった証しですね

あぁ、これは無惨な石仏様、全て顔がありませぬ・・・
う~ん、近寄りがたい!
一枚だけ撮った写真、何か揺らいでませんか・・・ひょぇ~(>_<)

でもこの境内はどこから見ても、絵になりますね

あっ、梵鐘ですか

当然、叩かせていただきましたとも
ゴ~~~・・・ン
その響きは、飯田山の山肌ぬって麓へかけ下ったことでしょう
でも、アリ地獄は五月蝿いだろうね^^;


この境内の脇から山頂へ上がれるようで、山頂には神社と観音像があります
ここも秋はまたいいだろうな、と思った熟年二人なのでした

境内を下りようとしたとき、ソフトバンクのお父さんそっくりの太郎くんと再会
熟年が上り始めようとしたときにバイクの荷台に載ってきた太郎くんと対面していたのでした

じいちゃんも足は達者で、熟年二人をおいてさっさか下っていきます
熟年がようやく下りてきたとき、じいちゃんが今から歩いて東野まで帰るとのこと
何でですか?と聞いたら、バイクがパンクしてました
市内に帰るなら乗せてあげたかったんですが、今から反対の山都町方面へ向かわなければならないので
がんばってくださいと、見送るしかありませんでした
ごめんね、じいちゃん、太郎くんm(_ _)m

さて、次は昼も過ぎているのでお腹を満たしにいきましたとさ♪
<飯田山常楽寺>
[住所]上益城郡益城町小池3811
[電話番号]0968-76-1843
[アクセス]地図はコチラ
先日、菊池周辺で「FMKぐるっと熊本クイズラリー」の問題を収集に出かけたときのお話し^^
竜門ダムの「龍龍館(ロンロンカン)」にもクイズラリーの問題があります
雨が降る前でしたから、ダムには意外と水が溜まっています
田植え前の貴重な農業用水ですからね^^
龍龍館の周りには、かわいい動物たちがつながれていました
でも、ミニ豚さんはちょっと暑さにへばってそう
裏にはヤギとロバ
ロバくんはぐるぐるになっちゃいそうだけど、上手く逆回転してたな^^
ヤギは木陰で気持ちよさそうに昼寝♪


何組かのファミリーが近くでお弁当を広げていました、安近短でいいね^^
菊池「ついんスター」のアイスクリームを食べながら、近場のパンフレットを見ていると
二人の気になるスポット発見!「聖護寺(しょうごじ)」
ダム沿いを遡って山里へ分け入ると鳳来(ほうぎ)という地区があります
ここで、聖護寺の案内看板を発見 道も狭そうなので歩いていくことに
でもこれが大間違いだった
坂を上れど上れど、らしきものは見えてこない
結局、また戻って車で上ったんですが車でも10分くらいかかった^^;
聖護寺はとても山深い場所にありました
大智禅師により1330年頃に開山されたと伝えられています
その後しだいにすたれ廃寺となりましたが、昭和17年に村上素道師が入山し再興されました
平成5年には国際禅道場が完成しました
現在では道元禅師の座禅を求めて、世界中から青い目の修行者が来られるそうです
聖護寺は檀家も墓もない珍しいお寺
地元鳳来地区の皆さんや御持会が支援されているそうです
熟年が行ったときも、ちょうど御持会の方々が集まって法要をされてました
婦人部の方々は白い割烹着でテントの中でお弁当を準備されています
お邪魔になりそうだったので、お寺の周りを少し歩くだけにしました
がこれが、なかなか風情ある場所でした♪
見下ろすと杉の葉で覆われた庫裏屋根
見上げると新緑のモミジ
シャクヤクは満開でした
秋には絶対に来ないといかんねと二人で話しましたとも♪
ランチは市内に戻って「一柳珈琲」さんでとることに
こちらにもクイズラリーの問題があるんちゃ♪
熟年はこんな企画でもないと入らないかも^^
店の入口から、洒落てますもん♪
一生懸命営業中の文字がいいね^^
この日は暑かったので水をぐいぐい飲む飲む、それほど美味しかった
やはり美味しい珈琲は水からだよね、と納得して
感じの良い店員さんに地下水ですかって聞いたら、水道水です、だって^^;
ミートソーススパゲッティ、なんだか無性に食べたかった
とっちんはクロックムッシュプロバンス、聞いたことない名前
あまりの熱さにとっちんは上顎の皮がずるむけた^^;
やはりセットの珈琲ですら風味が違いました、そして熱かった^^
違いの分かる男になったよ、熱いのが(笑)

ある日の菊池巡りでした^^v
竜門ダムの「龍龍館(ロンロンカン)」にもクイズラリーの問題があります

雨が降る前でしたから、ダムには意外と水が溜まっています
田植え前の貴重な農業用水ですからね^^
龍龍館の周りには、かわいい動物たちがつながれていました
でも、ミニ豚さんはちょっと暑さにへばってそう

裏にはヤギとロバ
ロバくんはぐるぐるになっちゃいそうだけど、上手く逆回転してたな^^
ヤギは木陰で気持ちよさそうに昼寝♪




何組かのファミリーが近くでお弁当を広げていました、安近短でいいね^^
菊池「ついんスター」のアイスクリームを食べながら、近場のパンフレットを見ていると

二人の気になるスポット発見!「聖護寺(しょうごじ)」
ダム沿いを遡って山里へ分け入ると鳳来(ほうぎ)という地区があります
ここで、聖護寺の案内看板を発見 道も狭そうなので歩いていくことに

でもこれが大間違いだった
坂を上れど上れど、らしきものは見えてこない
結局、また戻って車で上ったんですが車でも10分くらいかかった^^;
聖護寺はとても山深い場所にありました

大智禅師により1330年頃に開山されたと伝えられています
その後しだいにすたれ廃寺となりましたが、昭和17年に村上素道師が入山し再興されました

平成5年には国際禅道場が完成しました
現在では道元禅師の座禅を求めて、世界中から青い目の修行者が来られるそうです
聖護寺は檀家も墓もない珍しいお寺
地元鳳来地区の皆さんや御持会が支援されているそうです
熟年が行ったときも、ちょうど御持会の方々が集まって法要をされてました
婦人部の方々は白い割烹着でテントの中でお弁当を準備されています

お邪魔になりそうだったので、お寺の周りを少し歩くだけにしました
がこれが、なかなか風情ある場所でした♪
見下ろすと杉の葉で覆われた庫裏屋根

見上げると新緑のモミジ

シャクヤクは満開でした

秋には絶対に来ないといかんねと二人で話しましたとも♪
ランチは市内に戻って「一柳珈琲」さんでとることに
こちらにもクイズラリーの問題があるんちゃ♪
熟年はこんな企画でもないと入らないかも^^
店の入口から、洒落てますもん♪
一生懸命営業中の文字がいいね^^

この日は暑かったので水をぐいぐい飲む飲む、それほど美味しかった
やはり美味しい珈琲は水からだよね、と納得して
感じの良い店員さんに地下水ですかって聞いたら、水道水です、だって^^;
ミートソーススパゲッティ、なんだか無性に食べたかった

とっちんはクロックムッシュプロバンス、聞いたことない名前
あまりの熱さにとっちんは上顎の皮がずるむけた^^;

やはりセットの珈琲ですら風味が違いました、そして熱かった^^
違いの分かる男になったよ、熱いのが(笑)

ある日の菊池巡りでした^^v
<鳳儀山聖護寺>
[所在地]熊本県菊池市斑蛇口(はんじゃく)
[アクセス]地図はコチラ
熟年が多宝塔からてくてく歩いてくると、大聖院(だいしょういん)の参道にでてきました
最初にくぐるはずの「仁王門」が下に見えます^^;
目の前には、梵鐘があり、軽く一突きしてくださいのご案内あり
お気持ちの浄財を入れて軽~く、静か~に叩かせていただきました
最近、オテラーの誰かに似てきたかな^^
大聖院は大同元年(806年)に弘法大師空海が三鬼大権現を勧請し、弥山を開基して以来
1200年の歴史をもつ宮島で最古の寺院です
明治維新までは十二坊の末寺を有し、嚴島神社の法会祭事を司る別当職でした
大聖院で最も大きな建物である「観音堂」
もとは嚴島神社の御本尊の「十一面観世音菩薩」が安置されています
二匹の龍が睨みあってる
恐る恐る本堂の中へ入って、お参りしました
写真は自主判断で控えましたのが、中は煌びやかなご本尊と美しい天井絵
観音堂の入口には、このようなお誘いがありました
善光寺の「お戒壇巡り」と同じ趣向で、漆黒の闇の中を壁を伝いながら歩きます
とっちんがシャツをつかんでいるのでなかなか進めない^^;
途中、中国三十三観音をぼーっと灯す頼りない光を頼りに進むこと3分位だったかな
観音堂の右側から出てきました、ちょっとした肝試し♪
「勅願堂(ちょくがんどう)」
鳥羽天皇勅願道場として創建されたと伝えられる大聖院の本堂です
本堂前の階段左にて○○天が、右に○○神が鎮座、1体3万円の張り紙も^^;
秀吉が朝鮮出兵の折、必勝・海上安全を祈り守護仏とした「波切不動明王座像」が祀られています
「魔尼殿(まにでん)」
観音堂から見上げたこちらが魔尼殿♪
大小の天狗を従え、強大な神通力で衆生を救う全国唯一の鬼神で
初代総理大臣の伊藤博文も篤く信仰したといわれる「三鬼大権現」を祀っています
「大師堂」(だいしどう)
本坊最古の建物で、大同元年(806年)、弥山を開基されたと伝わる弘法大師空海を祀っています
高いだけあって、境内を見下ろすにはここからの景色が一番
紅葉の時期はさぞかし美しいことでしょう♪
下る途中に見た「仁王門」


南大門の金剛力士像のように筋肉隆々ですがどこか愛嬌が感じられる仁王様です^^
パーツが組み合わされていますから、奈良仏師の系統でしょう

この写真を撮っているときに仁王門が閉められちゃいました
確か、まだ外国人の観光客がいたよ^^;
この佇まい♪ この参道周辺に末寺があったのでしょう
さて、お次は国重要文化財の「五重塔」
応永14年(1407年)に建立され、和と唐の様が巧みに調和した朱塗りの美しい塔です
五重塔の横には、秀吉が戦で亡くなった者への供養として建立を命じた
国重要文化財の「大経堂」があります
畳857枚分の広さがあることから「千畳閣と」呼ばれています
秀吉の急死によって工事が中止されたため
御神座の天井以外は板壁もない未完成の状態で現在に至っています
それにしても、床下を普通に立って歩けるくらい高いので中の様子が見えませーん
背伸びして、手を伸ばしてようやくこんな感じ
風雨にさらされながらよくぞ保存されているものと感心します♪
大鳥居にも潮が満ちてきました
カメラ小僧がずらっと並んでいるのは大鳥居と夕陽狙いですね^^
帰りは土産物屋さんの前を通りましょうかね、だってこれを食べたかった
「揚げもみじ」、文字どおり、もみじ饅頭を揚げたもの♪
あんこ、チーズ、クリームの3種
うん、ちょっとした工夫なんですが、違った食感が楽しめます
焼き蠣にも結構、お客さんが並んでいました、さすが本場
そしてこれが、世界最大の杓文字^^
と…これを撮影したところで、予備の電池も切れてしまった
よくぞここまで持ってくれたもんです、2日間で945枚!
さーて、そろそろ帰らないと熊本は遠いぞ!
この時、時間は18時半、熊本に到着したのが23時過ぎ
まぁ、倉敷から安芸の宮島まで、詰め込めれるだけ詰め込んだ盛りだくさんの2日間でした♪
ラボはお利口さんで留守番をしていてくれましたが、寂しかったんかな
ドッグフードが減ってない、ごめんね
ということで、「GW旅」のシリーズ⑩まで、長らくおつきあい有り難うございました
ところで、ブログの更新の方を少しまったりしていきたいと思います
理由ですか?ん~~もろもろ^^;
まぁ~、ちょくちょくはアップしますんで
その代わり、皆さんのところへの訪問は増えると思いますので、ご勘弁です^^
最初にくぐるはずの「仁王門」が下に見えます^^;
目の前には、梵鐘があり、軽く一突きしてくださいのご案内あり
お気持ちの浄財を入れて軽~く、静か~に叩かせていただきました
最近、オテラーの誰かに似てきたかな^^

大聖院は大同元年(806年)に弘法大師空海が三鬼大権現を勧請し、弥山を開基して以来
1200年の歴史をもつ宮島で最古の寺院です
明治維新までは十二坊の末寺を有し、嚴島神社の法会祭事を司る別当職でした


大聖院で最も大きな建物である「観音堂」
もとは嚴島神社の御本尊の「十一面観世音菩薩」が安置されています

二匹の龍が睨みあってる

恐る恐る本堂の中へ入って、お参りしました
写真は自主判断で控えましたのが、中は煌びやかなご本尊と美しい天井絵
観音堂の入口には、このようなお誘いがありました

善光寺の「お戒壇巡り」と同じ趣向で、漆黒の闇の中を壁を伝いながら歩きます
とっちんがシャツをつかんでいるのでなかなか進めない^^;
途中、中国三十三観音をぼーっと灯す頼りない光を頼りに進むこと3分位だったかな
観音堂の右側から出てきました、ちょっとした肝試し♪
「勅願堂(ちょくがんどう)」
鳥羽天皇勅願道場として創建されたと伝えられる大聖院の本堂です

本堂前の階段左にて○○天が、右に○○神が鎮座、1体3万円の張り紙も^^;
秀吉が朝鮮出兵の折、必勝・海上安全を祈り守護仏とした「波切不動明王座像」が祀られています

「魔尼殿(まにでん)」
観音堂から見上げたこちらが魔尼殿♪

大小の天狗を従え、強大な神通力で衆生を救う全国唯一の鬼神で
初代総理大臣の伊藤博文も篤く信仰したといわれる「三鬼大権現」を祀っています

「大師堂」(だいしどう)
本坊最古の建物で、大同元年(806年)、弥山を開基されたと伝わる弘法大師空海を祀っています

高いだけあって、境内を見下ろすにはここからの景色が一番
紅葉の時期はさぞかし美しいことでしょう♪

下る途中に見た「仁王門」


南大門の金剛力士像のように筋肉隆々ですがどこか愛嬌が感じられる仁王様です^^
パーツが組み合わされていますから、奈良仏師の系統でしょう

この写真を撮っているときに仁王門が閉められちゃいました
確か、まだ外国人の観光客がいたよ^^;

この佇まい♪ この参道周辺に末寺があったのでしょう

さて、お次は国重要文化財の「五重塔」

応永14年(1407年)に建立され、和と唐の様が巧みに調和した朱塗りの美しい塔です

五重塔の横には、秀吉が戦で亡くなった者への供養として建立を命じた
国重要文化財の「大経堂」があります
畳857枚分の広さがあることから「千畳閣と」呼ばれています

秀吉の急死によって工事が中止されたため
御神座の天井以外は板壁もない未完成の状態で現在に至っています
それにしても、床下を普通に立って歩けるくらい高いので中の様子が見えませーん

背伸びして、手を伸ばしてようやくこんな感じ
風雨にさらされながらよくぞ保存されているものと感心します♪

大鳥居にも潮が満ちてきました
カメラ小僧がずらっと並んでいるのは大鳥居と夕陽狙いですね^^

帰りは土産物屋さんの前を通りましょうかね、だってこれを食べたかった
「揚げもみじ」、文字どおり、もみじ饅頭を揚げたもの♪

あんこ、チーズ、クリームの3種
うん、ちょっとした工夫なんですが、違った食感が楽しめます

焼き蠣にも結構、お客さんが並んでいました、さすが本場
そしてこれが、世界最大の杓文字^^

と…これを撮影したところで、予備の電池も切れてしまった
よくぞここまで持ってくれたもんです、2日間で945枚!
さーて、そろそろ帰らないと熊本は遠いぞ!
この時、時間は18時半、熊本に到着したのが23時過ぎ
まぁ、倉敷から安芸の宮島まで、詰め込めれるだけ詰め込んだ盛りだくさんの2日間でした♪
ラボはお利口さんで留守番をしていてくれましたが、寂しかったんかな
ドッグフードが減ってない、ごめんね
ということで、「GW旅」のシリーズ⑩まで、長らくおつきあい有り難うございました
ところで、ブログの更新の方を少しまったりしていきたいと思います
理由ですか?ん~~もろもろ^^;
まぁ~、ちょくちょくはアップしますんで
その代わり、皆さんのところへの訪問は増えると思いますので、ご勘弁です^^
<大本山 大聖院>
[所在地]広島県廿日市市宮島町210
[アクセス]地図はコチラ
久しぶりのまとまった雨
この春先はからから天気だったので、田植えを前に農家の方も安心したことでしょう
政治の話は書きたくないんですが、自民党は「復興実施本部」に参加しないとの記事
自民党が政権を取り返したときは、今回のお返しとばかりに民主党が全てに反対するんだろうな
そして、日本の将来を真に考えた政策は何も進まない
国民は一丸となっているのに、政治家達だけが我が身、我が党のことしか考えていない
あーっ、幕末の志士達のように日本の将来を熱く語る若い政治家、いでよ!!
さて、GW旅最後のスポットは「安芸の宮島」です
らぼっちは、初めての世界遺産ですが、とっちんは、いつだったか来たことがあるとのこと
でもいつかを思い出さないのが、これまた不思議なんですけど^^
それにしてもまず驚いたのが、宮島へ渡る所の駐車料金、土日祝日はどこも1000円!
停めないことには渡れませんから、仕方ないけど殿様商売だ
でも渡しのフェリーはJRも経営してて、一駅で片道170円なり♪
日本で唯一の「鉄道連絡船」です
小さく見えていた大鳥居がだんだん大きくなって15分もすると到着!
宮島駅は観光客でごった返しています
到着時刻は午後3時半ですから、あまりゆっくりは見る時間はないかな、とこの時は^^
あれれ、ここは鹿も観光のため一役かっているようですね^^
でもこの鹿くんは店の前でじっと何を待っていたのかな、おこぼれ待ち?
歩くこと約10分、大鳥居が見えてきました
この時間は干潮で多くの人が、鳥居の真下に集まっています
これはやはりタイミングが良かったということでしょうか^^
国重要文化財で、朱塗りの大鳥居は、高さ16m、重量は約60t
主柱は樹齢500~600年の楠の自然木で作られています
この柱は8代目で根元は埋めているのではなく、強化した地盤に鳥居の重みだけで立っているとのこと
ひょえ~、そうだったのか、帰ってから知りました^^
嚴島神社は、平安時代後期の仁安3年(1168年)に、神社を崇敬した平清盛の援助を得て
今日のような廻廊で結ばれた海上社殿が造営されました
天下統一を目前にした豊臣秀吉は、参詣して武運長久を祈願しました
現在の本殿は、元亀2年(1571年)に毛利元就によって改築されたものです
幾度となく自然災害や火災に見舞われましたが、その度に修理再建され
今日まで平安の荘厳華麗な姿を伝えています
平成8年12月、「嚴島神社」は世界文化遺産として登録されました
日本独自の文化を伝える優れた建築で、島全体の文化的景観が高く評価されました
それでは国宝の本殿に入場しますよ~♪
本殿は、繊細かつ華麗な切妻両流造りで、市杵島姫(いちきしまひめ)・湍津姫(たぎつひめ)
・田心姫(たごりひめ)の宗像三女神が祭られています
国宝の平舞台(ひらぶたい)
国宝の高舞台(たかぶたい)
平清盛が大阪・四天王寺から移したという舞楽がここで演じられる、舞楽の舞台としては最小のもの
長さ約275mの廻廊(かいろう)
国重要文化財の能舞台反橋(そりばし)
昔は祭事の際、勅使がこの橋を渡って本社内に入ったようですが
入ったというより、落ちてきたんではなかろうかと思うくらい急勾配!
国重要文化財の能舞台(のうぶたい)
国内で唯一の海に浮かぶ能舞台、回廊がぐるりと取り囲んでいます
足拍子の響きをよくするため床が一枚板のようになっているとのこと^^
今回は干潮時の嚴島神社でしたが、潮が満ちて社殿や廻廊が海に浮かんだような姿も見たかったと
贅沢な望みばかりの熟年二人♪
「宝物館」の玄関前には明治8年に再建された時の大鳥居の根元の一部が置かれていました
今回の旅では、高い位置から見下ろすということをしていたので
ここでも御多分にもれず上りましたとも♪
「多宝塔」は桜の木に囲まれていました
裏側から背伸びしてみましたが、あまりよく見えません(>_<)
上ってきた階段とは反対に、奥へと歩いていくとまたまたいろいろとありました♪
今日はここまで~、明日はGW旅のラスト記事です♪
この春先はからから天気だったので、田植えを前に農家の方も安心したことでしょう
政治の話は書きたくないんですが、自民党は「復興実施本部」に参加しないとの記事
自民党が政権を取り返したときは、今回のお返しとばかりに民主党が全てに反対するんだろうな
そして、日本の将来を真に考えた政策は何も進まない
国民は一丸となっているのに、政治家達だけが我が身、我が党のことしか考えていない
あーっ、幕末の志士達のように日本の将来を熱く語る若い政治家、いでよ!!
さて、GW旅最後のスポットは「安芸の宮島」です
らぼっちは、初めての世界遺産ですが、とっちんは、いつだったか来たことがあるとのこと
でもいつかを思い出さないのが、これまた不思議なんですけど^^
それにしてもまず驚いたのが、宮島へ渡る所の駐車料金、土日祝日はどこも1000円!
停めないことには渡れませんから、仕方ないけど殿様商売だ
でも渡しのフェリーはJRも経営してて、一駅で片道170円なり♪
日本で唯一の「鉄道連絡船」です

小さく見えていた大鳥居がだんだん大きくなって15分もすると到着!

宮島駅は観光客でごった返しています
到着時刻は午後3時半ですから、あまりゆっくりは見る時間はないかな、とこの時は^^
あれれ、ここは鹿も観光のため一役かっているようですね^^
でもこの鹿くんは店の前でじっと何を待っていたのかな、おこぼれ待ち?

歩くこと約10分、大鳥居が見えてきました
この時間は干潮で多くの人が、鳥居の真下に集まっています
これはやはりタイミングが良かったということでしょうか^^

国重要文化財で、朱塗りの大鳥居は、高さ16m、重量は約60t
主柱は樹齢500~600年の楠の自然木で作られています

この柱は8代目で根元は埋めているのではなく、強化した地盤に鳥居の重みだけで立っているとのこと
ひょえ~、そうだったのか、帰ってから知りました^^
嚴島神社は、平安時代後期の仁安3年(1168年)に、神社を崇敬した平清盛の援助を得て
今日のような廻廊で結ばれた海上社殿が造営されました
天下統一を目前にした豊臣秀吉は、参詣して武運長久を祈願しました
現在の本殿は、元亀2年(1571年)に毛利元就によって改築されたものです
幾度となく自然災害や火災に見舞われましたが、その度に修理再建され
今日まで平安の荘厳華麗な姿を伝えています
平成8年12月、「嚴島神社」は世界文化遺産として登録されました
日本独自の文化を伝える優れた建築で、島全体の文化的景観が高く評価されました
それでは国宝の本殿に入場しますよ~♪


本殿は、繊細かつ華麗な切妻両流造りで、市杵島姫(いちきしまひめ)・湍津姫(たぎつひめ)
・田心姫(たごりひめ)の宗像三女神が祭られています


国宝の平舞台(ひらぶたい)

国宝の高舞台(たかぶたい)
平清盛が大阪・四天王寺から移したという舞楽がここで演じられる、舞楽の舞台としては最小のもの


長さ約275mの廻廊(かいろう)


国重要文化財の能舞台反橋(そりばし)
昔は祭事の際、勅使がこの橋を渡って本社内に入ったようですが
入ったというより、落ちてきたんではなかろうかと思うくらい急勾配!

国重要文化財の能舞台(のうぶたい)
国内で唯一の海に浮かぶ能舞台、回廊がぐるりと取り囲んでいます
足拍子の響きをよくするため床が一枚板のようになっているとのこと^^

今回は干潮時の嚴島神社でしたが、潮が満ちて社殿や廻廊が海に浮かんだような姿も見たかったと
贅沢な望みばかりの熟年二人♪
「宝物館」の玄関前には明治8年に再建された時の大鳥居の根元の一部が置かれていました

今回の旅では、高い位置から見下ろすということをしていたので
ここでも御多分にもれず上りましたとも♪

「多宝塔」は桜の木に囲まれていました

裏側から背伸びしてみましたが、あまりよく見えません(>_<)

上ってきた階段とは反対に、奥へと歩いていくとまたまたいろいろとありました♪
今日はここまで~、明日はGW旅のラスト記事です♪
<嚴島神社>
[所在地]広島県廿日市市宮島町1-1
[拝観料]300円
[アクセス]地図はコチラ
いやー、今日も暑かったですね
もう、初夏を通り越して夏だ♪
とっちんは暑い中の農作業でグロッキーみたい^^;
さて、出発前に尾道の観光情報を調べていて熟年にヒットした場所がありました
国宝の寺「浄土寺」です
浄土寺は、遥か飛鳥の昔(616年)、聖徳太子の開基と伝えられ、中国地方屈指の古刹です
らぼっちが、惹かれた理由は「全国に類を見ない寺域全体が国宝指定」という見出し♪
無性に行きたくなった”梵蔵おてらー”なのでした^^
しかし、尾道は平地はあまりなく山際に張り付いたような町
こんな大きな由緒あるお寺にも大きな駐車場がないんです
狭い道をぐるぐる登っても駐車場が分からず、結局近くの幼稚園に停めて歩いていくことに
この狭い参道を車で入っていった先に数台駐車できる場所がありました、が満車^^
山門前までくると境内がとても賑やか、団体さんが説法を待っている様子です
団体さんが本堂へ入るのを待って上がりました
この浄土寺は、文化財だらけなんです^^;
まずこの山門が南北朝時代の国重要文化財
狛犬が支えているこの石碑は一石彫りとのこと、すごい!
荘厳な「浄土寺本堂」は鎌倉時代(1327年)の国宝
軒反りの美しさは中世建築物の中でも筆頭格と言われています
浄土寺の寺紋である「二つ引き両」は足利家の家紋でもあります
足利尊氏は浄土寺の観音様に戦勝祈願した翌年、全国を平定し室町幕府を開きました
南北朝時代(1345年)の「阿弥陀堂」は国重要文化財
日本の三大名塔に上げられる「多宝塔」は鎌倉時代(1328年)の国宝
多宝塔で若者が一生懸命掃除をしていたので尋ねると、地元の大学生さん達で
翌日に写真展を開催する準備をしているとのこと
そのため、扉が開いていたので撮らせていただきました
外からだから許してね♪
この角度が境内で最も美しい伽藍配置とのこと
なんか、空がなくて窮屈すぎる感も否めませんが^^;
なんだか、これだけでは満足できない熟年夫婦
拝観料500円を払って伽藍内を案内していただきました
仏像や絵画など本堂や阿弥陀堂など建物の中は撮影禁止でしたが、外ならいいですよ
ということで、撮影しながらの見学させていただくことに♪
足利尊氏も参拝したとされる秘仏の「木造十一面観音菩薩立像」は
33年毎の御開帳で見られませんでしたが、他の仏像は全て拝見できました
阿弥陀堂の中では様々な工夫がされていました
欄間?にあたる部分の飾り木?が近づくと緑から赤に変わったり
模様も四角から円に変わったり、二人とも溜息ばかり♪
こちらは客殿の間
襖絵も説明してくれましたが忘れました^^
法事が終わった後の部屋も見せていただきました
客殿前のこの廊下は鴬張りだったそうですが耐震工事で鳴らなくなったらしい
なぜか1ヶ所だけ、キュッキュッと鳴っていました♪
こちらは江戸時代に雪舟13代の方が古絵図をもとに造られた庭園
昔は中央部分から水が流れていたらしいにのですが今は枯れていました
最後に本堂の中で「不動明王坐像」など多数の仏像にお会いすることができました
案内された方が宝物館も素晴らしいですよ、と言われるので
もちろん見学することに
聖徳太子の三体の像や足利尊氏の将軍画像はこちらに納められていました
社会科の教科書で見たような絵画や仏像をこちらで拝観できて
なんだか、これも本命っぽいんじゃない、と二人とも大満足♪
このときの時間が13時過ぎ
この後、尾道ちゃんのお好み焼きを食べに町に下りたんですが
この日は港祭りをやってて、なんとすごい人出、駐車場から車が溢れかえっている
小さなお店を何件か見つけましたが駐車場がありません
ということで、尾道でもう一つ回りたかった「千光寺」と
本場尾道っちゃんのお好み焼きをあきらめ、広島方面へ向かうことに
尾道を出たところの郊外でようやく食べることができました
らぼっちはたこ、とっちんはいか♪
このお好み焼きが、尾道風か広島風かは分かりませんが、美味しかった^^
さて、まだ時間があるよねといって向かったのはGW旅、最後のスポットです♪
もう、初夏を通り越して夏だ♪
とっちんは暑い中の農作業でグロッキーみたい^^;
さて、出発前に尾道の観光情報を調べていて熟年にヒットした場所がありました
国宝の寺「浄土寺」です
浄土寺は、遥か飛鳥の昔(616年)、聖徳太子の開基と伝えられ、中国地方屈指の古刹です
らぼっちが、惹かれた理由は「全国に類を見ない寺域全体が国宝指定」という見出し♪
無性に行きたくなった”梵蔵おてらー”なのでした^^

しかし、尾道は平地はあまりなく山際に張り付いたような町
こんな大きな由緒あるお寺にも大きな駐車場がないんです
狭い道をぐるぐる登っても駐車場が分からず、結局近くの幼稚園に停めて歩いていくことに
この狭い参道を車で入っていった先に数台駐車できる場所がありました、が満車^^

山門前までくると境内がとても賑やか、団体さんが説法を待っている様子です
団体さんが本堂へ入るのを待って上がりました

この浄土寺は、文化財だらけなんです^^;
まずこの山門が南北朝時代の国重要文化財
狛犬が支えているこの石碑は一石彫りとのこと、すごい!

荘厳な「浄土寺本堂」は鎌倉時代(1327年)の国宝
軒反りの美しさは中世建築物の中でも筆頭格と言われています

浄土寺の寺紋である「二つ引き両」は足利家の家紋でもあります
足利尊氏は浄土寺の観音様に戦勝祈願した翌年、全国を平定し室町幕府を開きました

南北朝時代(1345年)の「阿弥陀堂」は国重要文化財

日本の三大名塔に上げられる「多宝塔」は鎌倉時代(1328年)の国宝

多宝塔で若者が一生懸命掃除をしていたので尋ねると、地元の大学生さん達で
翌日に写真展を開催する準備をしているとのこと
そのため、扉が開いていたので撮らせていただきました
外からだから許してね♪

この角度が境内で最も美しい伽藍配置とのこと
なんか、空がなくて窮屈すぎる感も否めませんが^^;

なんだか、これだけでは満足できない熟年夫婦
拝観料500円を払って伽藍内を案内していただきました
仏像や絵画など本堂や阿弥陀堂など建物の中は撮影禁止でしたが、外ならいいですよ
ということで、撮影しながらの見学させていただくことに♪
足利尊氏も参拝したとされる秘仏の「木造十一面観音菩薩立像」は
33年毎の御開帳で見られませんでしたが、他の仏像は全て拝見できました
阿弥陀堂の中では様々な工夫がされていました
欄間?にあたる部分の飾り木?が近づくと緑から赤に変わったり
模様も四角から円に変わったり、二人とも溜息ばかり♪
こちらは客殿の間
襖絵も説明してくれましたが忘れました^^

法事が終わった後の部屋も見せていただきました

客殿前のこの廊下は鴬張りだったそうですが耐震工事で鳴らなくなったらしい
なぜか1ヶ所だけ、キュッキュッと鳴っていました♪

こちらは江戸時代に雪舟13代の方が古絵図をもとに造られた庭園
昔は中央部分から水が流れていたらしいにのですが今は枯れていました

最後に本堂の中で「不動明王坐像」など多数の仏像にお会いすることができました
案内された方が宝物館も素晴らしいですよ、と言われるので
もちろん見学することに
聖徳太子の三体の像や足利尊氏の将軍画像はこちらに納められていました
社会科の教科書で見たような絵画や仏像をこちらで拝観できて
なんだか、これも本命っぽいんじゃない、と二人とも大満足♪
このときの時間が13時過ぎ
この後、尾道ちゃんのお好み焼きを食べに町に下りたんですが
この日は港祭りをやってて、なんとすごい人出、駐車場から車が溢れかえっている
小さなお店を何件か見つけましたが駐車場がありません
ということで、尾道でもう一つ回りたかった「千光寺」と
本場尾道っちゃんのお好み焼きをあきらめ、広島方面へ向かうことに
尾道を出たところの郊外でようやく食べることができました
らぼっちはたこ、とっちんはいか♪

このお好み焼きが、尾道風か広島風かは分かりませんが、美味しかった^^

さて、まだ時間があるよねといって向かったのはGW旅、最後のスポットです♪
<浄土寺>
[所在地]広島県尾道市東久保町20-28
[拝観料]500円、宝物館400円
[拝観時間]9:00~17:00
[駐車場]数台
[アクセス]地図はコチラ
今日は暑かったですね
車の外気温は29℃になってました
今晩は、まだファンヒーターも出ているのに、扇風機が欲しい^^
そんな暑かった日、次男が東京に戻っていきました
今朝、「母の日だけん、感謝の一つも言っとかんとね」というと
「そうか」だけの返事!
空港から見送った後、とっちんにメールが届きました
「助手席にプレゼント置いといといたから、好きに使って、ありがとう」
二人して、なんだろうと探したら座布団の下に数枚の大枚が・・・
途中、コンビニに寄ったのはこのためか
娘からも感謝のメールが届きました
親バカですが、出来た子供達です
ちなみに父の日には、メールすらありません^^;
さて、広島県福山市でなんか良いところと探してて、ここを見つけたときのとっちん
ここも行きたかったところ、福山だったんだと、感激しておりました
そこの町中を通っている県道47号線がこれ、狭い狭い!
もうお分かりになりましたでしょうか、「鞆(とも)の浦」です^^
この47号線バイパスの建設では、鞆の浦の埋め立てと架橋を伴うことから
住民の中にも賛成、反対の声があり、今も議論されているようです
「崖の上のポニョ」の舞台になったことでも知られていますね♪
鞆の浦は、古代から瀬戸内海航路の要所として発展しました
また、室町時代には足利尊氏が後醍醐天皇に対しここで挙兵し、織田信長に追い出されます
後に毛利家の庇護を受けた足利義昭が居住
さらに幕末には「いろは丸事件」で、坂本龍馬達が立ち寄るなど
歴史的な人物とゆかりの大きい場所です
奇跡的に幕末~昭和初期の湊町の町並みが、広範囲にわたってそのまま残り
江戸期の建物が80棟、明治期が91棟、大正・昭和期が301棟もあるとのこと
江戸期のというのがすごいではないですか^^
市重要文化財である「鞆の津の商家」の前に駐車場を見つけ、いざ町歩きに出発♪
でも二人の目線はのっけからこの商家の二階角の漆喰模様に釘付け
この時の時刻が朝の7時半頃
見学施設はまだどこも開館していませんが、熟年世代の観光客がちらほら^^
こちらは、いろは丸事件で最初に談判が行われた、談判跡(魚屋萬蔵宅)です
公開していますが、開館していない
いろは丸事件とは、1867年(慶応3年)坂本竜馬の海援隊は大洲藩船「いろは丸」に武器・商品を乗せ
鞆港への回航途中、六島沖の海上で紀州藩の「明光丸」と衝突し、いろは丸が沈没した事件です

そしてこちらは「太田家住宅」、ここも当然まだ開いてない^^;
幕末に三条実美らの公卿が、禁門の変によって西に追われた「七卿落ち」の時に滞在した住宅とのこと
長州まで逃げたわけではなかったんだね、歴史の勉強にもなります
少し大きな通り?から狭い通りをのぞくと、期待を裏切らない感動の空間が待ってます
なかなか進みません、お分かりになっていただけますよね♪

若いお姉さんが急ぎ足で歩いているのを発見、これだって絵になるでしょう^^
歩いていると、必然的に町の中心である港に出てきます
そこには、鞆のシンボル「常夜燈」と「雁木(がんぎ)」、往時を彷彿とさせる景色が残されています

雁木(がんぎ)とは、船着場における階段状の構造物で、川尻の船着場跡にもある石段のことでした^^
この港には「いろは丸展示館」があり
海底に沈むいろは丸の様子や坂本竜馬の資料などが見学できますが、開館前^^

次は上から見下ろすために、歴史民俗資料館がある城跡に上ります

返す返す、青空だったらと思う風景ですね
いろは丸事件での紀州藩との賠償交渉は、福禅寺の客殿「対潮楼」でも行われました
案内看板で、龍馬がこの景色は絶対見なきゃいかんぜよ、とお勧めしていたところ^^

海岸山千住院福禅寺は、平安時代のの創建と伝えられる真言宗の寺院です
本堂や隣接する対潮楼は、江戸時代の元禄年間(1688~1704)に建立されました

こちらが、「対潮楼」です
まるで額縁の風景画、そのものです♪
とっちんも感動しまくりでした

また、対潮楼は江戸時代を通じて朝鮮通信使のための迎賓館として使用され、通信使はこの景観を
「日東第一形勝」(対馬から江戸の間で一番美しい景色)と賞賛し、書を残しました
江戸時代から、通信使の残した漢詩・書跡を鑑賞するため、多くの文人が対潮楼を訪れたそうです

でもらぼっちがじっと見ていたのはこの写真(長崎市撮影)
有名な写真ですが、龍馬、海舟、西郷どんなど
よくもまぁ、これだけの幕末の志士が一同に会したものです

クリックで大きくなるので、じっくりどうぞ♪

本堂で木造千手観音立像を眺めていると、ご高齢の住職さん?からいろいろと教えていただきました
屋島の合戦の後、平家の女官がここで花魁になったこと・・・
なんせ、半分はよく聞き取れませんでした^^;
隠れキリシタンが信仰したマリア観音を特別だよと言って、見せていただきました
表は観音様、裏の扉を開けると十字架が隠されています
本当に珍しいものを拝見させてもらってラッキーでした^^
また、対潮楼に戻ると窓際が何やら賑やかになっています
なんと、5月1日は鞆の浦の初夏の風物詩である「観光鯛網」の初日だったのです
航海の安全と大漁を願う樽太鼓と大漁節が浜に響き、大漁船で弁天島に祈願して出漁する
往時の姿をそのまま今に伝えています
最後は鞆の浦を山の上から見たショットをどうぞ♪
写真ではうまく表現できていませんが、島々の間に霞が発生していてまるで墨絵の世界♪
尾根の後山まで上って、瀬戸内海国立公園を一望してきました
(↓パノラマだよーっ)
この鞆の浦は、時間調整のオマケのつもりでしたが、今回の旅の本命にならんばかりの感動の地でした^^v
さて、尾道に向かいましょう♪
車の外気温は29℃になってました
今晩は、まだファンヒーターも出ているのに、扇風機が欲しい^^
そんな暑かった日、次男が東京に戻っていきました
今朝、「母の日だけん、感謝の一つも言っとかんとね」というと
「そうか」だけの返事!
空港から見送った後、とっちんにメールが届きました
「助手席にプレゼント置いといといたから、好きに使って、ありがとう」
二人して、なんだろうと探したら座布団の下に数枚の大枚が・・・
途中、コンビニに寄ったのはこのためか
娘からも感謝のメールが届きました
親バカですが、出来た子供達です
ちなみに父の日には、メールすらありません^^;
さて、広島県福山市でなんか良いところと探してて、ここを見つけたときのとっちん
ここも行きたかったところ、福山だったんだと、感激しておりました
そこの町中を通っている県道47号線がこれ、狭い狭い!

もうお分かりになりましたでしょうか、「鞆(とも)の浦」です^^
この47号線バイパスの建設では、鞆の浦の埋め立てと架橋を伴うことから
住民の中にも賛成、反対の声があり、今も議論されているようです
「崖の上のポニョ」の舞台になったことでも知られていますね♪
鞆の浦は、古代から瀬戸内海航路の要所として発展しました
また、室町時代には足利尊氏が後醍醐天皇に対しここで挙兵し、織田信長に追い出されます
後に毛利家の庇護を受けた足利義昭が居住
さらに幕末には「いろは丸事件」で、坂本龍馬達が立ち寄るなど
歴史的な人物とゆかりの大きい場所です
奇跡的に幕末~昭和初期の湊町の町並みが、広範囲にわたってそのまま残り
江戸期の建物が80棟、明治期が91棟、大正・昭和期が301棟もあるとのこと
江戸期のというのがすごいではないですか^^
市重要文化財である「鞆の津の商家」の前に駐車場を見つけ、いざ町歩きに出発♪
でも二人の目線はのっけからこの商家の二階角の漆喰模様に釘付け

この時の時刻が朝の7時半頃
見学施設はまだどこも開館していませんが、熟年世代の観光客がちらほら^^

こちらは、いろは丸事件で最初に談判が行われた、談判跡(魚屋萬蔵宅)です
公開していますが、開館していない

いろは丸事件とは、1867年(慶応3年)坂本竜馬の海援隊は大洲藩船「いろは丸」に武器・商品を乗せ
鞆港への回航途中、六島沖の海上で紀州藩の「明光丸」と衝突し、いろは丸が沈没した事件です


そしてこちらは「太田家住宅」、ここも当然まだ開いてない^^;

幕末に三条実美らの公卿が、禁門の変によって西に追われた「七卿落ち」の時に滞在した住宅とのこと
長州まで逃げたわけではなかったんだね、歴史の勉強にもなります
少し大きな通り?から狭い通りをのぞくと、期待を裏切らない感動の空間が待ってます

なかなか進みません、お分かりになっていただけますよね♪


若いお姉さんが急ぎ足で歩いているのを発見、これだって絵になるでしょう^^

歩いていると、必然的に町の中心である港に出てきます
そこには、鞆のシンボル「常夜燈」と「雁木(がんぎ)」、往時を彷彿とさせる景色が残されています

雁木(がんぎ)とは、船着場における階段状の構造物で、川尻の船着場跡にもある石段のことでした^^
この港には「いろは丸展示館」があり
海底に沈むいろは丸の様子や坂本竜馬の資料などが見学できますが、開館前^^

次は上から見下ろすために、歴史民俗資料館がある城跡に上ります

返す返す、青空だったらと思う風景ですね

いろは丸事件での紀州藩との賠償交渉は、福禅寺の客殿「対潮楼」でも行われました
案内看板で、龍馬がこの景色は絶対見なきゃいかんぜよ、とお勧めしていたところ^^

海岸山千住院福禅寺は、平安時代のの創建と伝えられる真言宗の寺院です
本堂や隣接する対潮楼は、江戸時代の元禄年間(1688~1704)に建立されました


こちらが、「対潮楼」です

まるで額縁の風景画、そのものです♪

とっちんも感動しまくりでした

また、対潮楼は江戸時代を通じて朝鮮通信使のための迎賓館として使用され、通信使はこの景観を
「日東第一形勝」(対馬から江戸の間で一番美しい景色)と賞賛し、書を残しました
江戸時代から、通信使の残した漢詩・書跡を鑑賞するため、多くの文人が対潮楼を訪れたそうです


でもらぼっちがじっと見ていたのはこの写真(長崎市撮影)
有名な写真ですが、龍馬、海舟、西郷どんなど
よくもまぁ、これだけの幕末の志士が一同に会したものです

クリックで大きくなるので、じっくりどうぞ♪

本堂で木造千手観音立像を眺めていると、ご高齢の住職さん?からいろいろと教えていただきました
屋島の合戦の後、平家の女官がここで花魁になったこと・・・
なんせ、半分はよく聞き取れませんでした^^;
隠れキリシタンが信仰したマリア観音を特別だよと言って、見せていただきました
表は観音様、裏の扉を開けると十字架が隠されています
本当に珍しいものを拝見させてもらってラッキーでした^^
また、対潮楼に戻ると窓際が何やら賑やかになっています

なんと、5月1日は鞆の浦の初夏の風物詩である「観光鯛網」の初日だったのです
航海の安全と大漁を願う樽太鼓と大漁節が浜に響き、大漁船で弁天島に祈願して出漁する
往時の姿をそのまま今に伝えています
最後は鞆の浦を山の上から見たショットをどうぞ♪

写真ではうまく表現できていませんが、島々の間に霞が発生していてまるで墨絵の世界♪
尾根の後山まで上って、瀬戸内海国立公園を一望してきました
(↓パノラマだよーっ)

この鞆の浦は、時間調整のオマケのつもりでしたが、今回の旅の本命にならんばかりの感動の地でした^^v
さて、尾道に向かいましょう♪
<対潮楼>
[所在地]岡山県倉敷市児島味野1-11-19
[住所]広島県福山市鞆町2
[TEL]084-982-2705
[料金]拝観200円
[開館時間]8~17時
[駐車場]なし
[アクセス]地図はコチラ
今日は次男が、友達と会うので車を使いたいということで
家でまったりの熟年夫婦でございました^^
旧野崎豪邸を見学した後に向かったのは、鷲羽山(わしゅうざん)
ここから展望する瀬戸大橋の全景は最高ということで、はずす訳にはいかんでしょ^^
鷲羽山は雲仙、霧島とともに昭和9年に国内初の国立公園に指定されたんですよ
また、鷲羽山から見た瀬戸内海に沈む夕日は「日本の夕日百選」にも選ばれています
大駐車場から登ると展望台があるのですが、イマイチ角度が悪くて大橋の全景が収まらない
ということで、この頃には結構足腰にもきてましたが、さらに山頂に向かって大橋に向かって歩きました
ビジターセンターまでは断念しましたが、途中の大きな一枚岩から撮影♪

曇り空なのが本当に残念!
紺碧の海とブルースカイだったら、どれだけ素晴らしかったことか
どこぞのおっさんがどうしても一枚撮って欲しいというので
仕方なくとっちんが撮りましたが、どんなポーズ取っても冴えないね^^;

もちろん、今度は山を下りて、見上げましたとも
見上げすぎると、後ろにぶっ倒れそうになります^^;

しかし、すごい迫力!
日本にはこれだけの力があるのだから、復興も大丈夫と改めて思いました

ちょうどこの時、列車が通過しているのが轟音で分かりますが、まったく見えません^^;
この頃の時間が夕方の5時過ぎ、ということでもう間に合わないとは知りつつ向かったのが
「むかし下津井 回船問屋」

瀬戸内海を望む下津井漁港は、江戸時代から大正にかけて北前船で賑わった湊町でした
その面影が感じられますね

この「むかし下津井回船問屋」は当時の回船問屋を復元した資料館で
瀬戸内の海の幸や干物などの土産も購入できます
二階にはしっかりと倉敷格子も復元されていますね♪

そして、この「まだかな」の建物の文字が気になって、近くにあった看板に目をやると

なるほど、そういう一面もあった賑やかな町だったのね^^

少しぶらついた後、小さなみやげ物店を見つけ、下津江で採れた海苔とワカメを購入♪
こちらは下津井のノラくん^^

まだ明るかったので水島コンビナートを山から眺めようよということになり
鷲羽山スカイライン を少し戻って一枚♪
ここは工場群の夜景が素晴らしいんですよね

でも熟年はこれで満足して、次へ向かいます
コンビナートを左に眺めつつ、夕日に向かって西へ走るエアウェイブ♪
熟年の突然の遠出というフットワークの軽さの理由の一つ
実は宿泊を考えないからなんです、どういうことかって^^;
カーナビでトイレがありそうな公園を探して、車中泊^^v
フラットにして布団を敷けばカプセルホテルとそう変わりません(笑)
寝床は岡山県浅口市の海岸沿いの運動公園に決定
ここで事件発生、とっちんがトイレから戻ってくる時に
最短を歩こうとして池にはまってしまった^^;
まあ靴は水浸しになりましたが、浅くてよかったね
今回、倉敷に来るにあたって決めていたことは
「倉敷近辺」、尾道の「浄土寺」と「千光寺」そして尾道で「お好み焼き」を食べること
明日の行程を決めるにあたって、尾道までの途中になんか良い所ないかな
と調べてたら、むふふ、見つけましたよ^m^
さあ、食べて、飲んだら真っ暗でやることないから、21時過ぎには早々と就寝・・・
当然目覚めは早く、朝の5時過ぎ^^

ここです とっちんが、はまった池^^

ここまで来たんだからと海を見てみることに
小さな山が三つ並んだ島が良いアクセントになってました
この日は雨模様さえ予想されたので、曇りならラッキー♪

さて、ここからは2日目♪
昨晩、行き当たりばったりで見つけた場所にレッツらゴー!
実は、これがオマケと思ってたら、今回のGW旅の本命にもなろうかというくらい
風情のある萌え萌え場所でした
この時点の位置関係と熟年の趣味、萌えスポットから分かる人いるかな?^^
興味ある方は、明日も見てくださいませm(_ _)m
<むかし下津井 回船問屋>
[所在地]倉敷市下津井1-7-23
[TEL]086-479-7890
[開館時間]9:00~17:00(入館は16:30まで)
[休館日]火曜日(但し祝日は開館)
[アクセス]地図はコチラ
一昨日と昨日は次男を連れて福岡の実家に行っておりました
そして昨日は思いもかけない事態に遭遇!
前々から猿が畑を荒らすとは聞いていたのですが
実際に猿の群れが裏山から家の近くの畑に下りてきて
エンドウ豆やタマネギを採って食べているのを見たのです
町ではあちこちで猿の被害が大きいため
各家庭に手首固定型のスリングショット(俗に言うパチンコ)を貸し出しているようです
らぼっちと次男は出没した猿にパチンコ玉を当てたくて
出てきた時はてんでに追い回して玉を放つのですが、敵もサルモノ(笑)
逃げ足早く裏山に駆け上がります
でも本当は木に登って近くで様子をうかがっているのです
人間が疲れて家に上がるやいなや、すぐさま下りてきてタマネギを抜いて食べてしまいます
その繰り返しが続き、これじゃタマネギがなくなってしまうと思われたので役場に電話
委託された業者が来て爆竹や散弾銃もどきの銃(どう見てもおもちゃ^^;)で威嚇しました
ですが、それも見透かされているようで業者が帰れば元の木阿弥
畑に一日中いるわけにもいかず、どうしたもんか頭をかかえています
中には家の引き戸を開けて仏壇のお供え物を食べたりする猿もいるようで
人間と猿の攻防はずっと続いていくんでしょうかねぇ^^;
さてさて、倉敷をざざーっと見た後のお話です
今回はちょっと欲張りな旅にしようと美観地区から児島エリアに南下しました
そこで訪れたのは・・・
専用駐車場に停めて歩き出すとよく目立つんで助かります^^
そう、旧野崎家住宅です
ここでどうして国と県指定で呼び方が違うのか疑問に思いましたが
ま、いいかと小さいことは気にせず向かうことに^^
あ、そうだった、ここ児島は日本ジーンズ発祥の地でした
目の前の桃太郎ジーンズの味野本店さんからジーンズストリートと呼ばれる通りが始まっていました
店内を見たい気持ちをぐっと抑え、野崎家の門に急ぎます
何だか武家屋敷の長屋門みたいです
でもただの長屋門ではなく、右に桃屋敷、左に南座敷が御成門に続きます
こちらは江戸時代後半、児島半島の南側を中心に広大な塩田開発を行い
「塩田王」となった大庄屋、野崎武左衛門の居宅、いうなれば財閥の邸宅なのです
低い丘陵を背景に約3000坪という広大な敷地と、約1000坪の建物延べ床面積を持ち
枯山水の庭園、長屋門、主屋、表書院、土蔵、茶室などが一体的に残っているのが特徴らしいです
ぎょえーー!さすが大富豪!広さが半端ないです@@
あ、いかんいかん、門を入ってすぐから怖気づいてる(笑)
さ、くぐり戸を抜けてっと・・・
ここは、内玄関とな、げげっこんなに大きい^^;
どれだけの部屋数があるのかいな
さらに進むと、こちらが表玄関、お、中庭が見えていますよ
ちょっと大き目のくぐり戸、さらに奥には立派な庭が^^
前庭には貴賓が駕籠をとめるお駕籠石が配されています
この庭が見える部屋が表書院、今で言う応接間です、広っ!!
上の間、下の間、茶室と全部で三十畳くらいあるようです
キンキラキンの襖に黒縁取りの波形の欄間、超豪華ーー☆
おおー、これも圧巻、梁は一本の地松だそうです
こちらは水琴窟(すいきんくつ)
手前に立てかけてある竹筒に耳を当て、水の音を楽しみます
竹で聞くせいか、すごく澄んだ心が洗われるようなきれいな音がとてもよく聞こえました
いろんな木々が植えられている庭、さつきにはちょっと早かったみたい^^;
ここは中座敷、野崎家の住まいの中心となったところです
どれだけ繋がっていると思います?
42m、九つの部屋が連なっているということです
運動会ができそうですよね(笑)
広い庭にはお茶室が三席もあったり、大きな桧や苔がいろんな調和を見せていました

裏にまわると、要塞のような石垣が現れました
これがただの石垣じゃないんですよ
高さは10m以上、丘に合わせてうねりが作ってあり、圧倒されます
これを書くにあたって調べていたら、この中に高度な技術を要した扇面の石があるとのこと
明治~大正時代にかけて造られた石垣、はい、目を凝らして撮った写真を探しましたとも!
そうしたら偶然写っていました(笑)
こちらは台所、なんとかまどの多いこと
何人分を作っていたんでしょうね^^
調度品も贅沢なものでしたよ^^
大正時代のオールドノリタケなんかもありました、かわいかった~♪
向座敷の上部にあるガラス張りのアレは何だろうか、見張り部屋?
台所の横には夜具蔵
蔵に入れなきゃならないほど、たくさんの布団があったんでしょうね
それにしても外壁の「焼き杉」は「焼き過ぎ」じゃありませんか?(爆)
建物がたくさんなので、敷地内でも風情のある景色がどこかしこにありました
だって、蔵だけでも7つあるんですから^^;
蔵は“商人のお城”とも言われ、富の象徴だというわけです
その中のひとつ、一番大きい大蔵は展示館になっています
これはポーランド産の岩塩、重さ当てをしていました(答え忘れちゃった^^;)
昔の塩作りの道具なども展示されていましたよ
現在でも野崎家は市内にてナイカイ塩業という製塩会社を経営していて
国内トップシェアを誇っているそうです
疎いのでちっともわかりませんが、絵や字が書かれた屏風や掛け軸がたくさんありました
たぶん高価なものなんでしょう(貧乏人なので・・^^;)
いやいやお金持ちというのはどんだけの度量があったのでしょうか

蔵の窓も同じものがありませんでした
パンフには“山陽道の代表的な民家”と書いてありましたが
民家とは違うだろっ!民家とは一般庶民の家っつうことでしょーが
ここは“山陽道の代表的な豪邸”と改めてほしいと思った熟年でした(笑)
上の写真は文久3年(1863年)に塩釜明神の御神燈として
また、浜へ出入りする船の夜間照明のための灯台として建てられた旧野崎浜灯明台です
そして昨日は思いもかけない事態に遭遇!
前々から猿が畑を荒らすとは聞いていたのですが
実際に猿の群れが裏山から家の近くの畑に下りてきて
エンドウ豆やタマネギを採って食べているのを見たのです
町ではあちこちで猿の被害が大きいため
各家庭に手首固定型のスリングショット(俗に言うパチンコ)を貸し出しているようです
らぼっちと次男は出没した猿にパチンコ玉を当てたくて
出てきた時はてんでに追い回して玉を放つのですが、敵もサルモノ(笑)
逃げ足早く裏山に駆け上がります
でも本当は木に登って近くで様子をうかがっているのです
人間が疲れて家に上がるやいなや、すぐさま下りてきてタマネギを抜いて食べてしまいます
その繰り返しが続き、これじゃタマネギがなくなってしまうと思われたので役場に電話
委託された業者が来て爆竹や散弾銃もどきの銃(どう見てもおもちゃ^^;)で威嚇しました
ですが、それも見透かされているようで業者が帰れば元の木阿弥
畑に一日中いるわけにもいかず、どうしたもんか頭をかかえています
中には家の引き戸を開けて仏壇のお供え物を食べたりする猿もいるようで
人間と猿の攻防はずっと続いていくんでしょうかねぇ^^;
さてさて、倉敷をざざーっと見た後のお話です
今回はちょっと欲張りな旅にしようと美観地区から児島エリアに南下しました
そこで訪れたのは・・・

専用駐車場に停めて歩き出すとよく目立つんで助かります^^
そう、旧野崎家住宅です
ここでどうして国と県指定で呼び方が違うのか疑問に思いましたが
ま、いいかと小さいことは気にせず向かうことに^^
あ、そうだった、ここ児島は日本ジーンズ発祥の地でした


目の前の桃太郎ジーンズの味野本店さんからジーンズストリートと呼ばれる通りが始まっていました
店内を見たい気持ちをぐっと抑え、野崎家の門に急ぎます

何だか武家屋敷の長屋門みたいです
でもただの長屋門ではなく、右に桃屋敷、左に南座敷が御成門に続きます
こちらは江戸時代後半、児島半島の南側を中心に広大な塩田開発を行い
「塩田王」となった大庄屋、野崎武左衛門の居宅、いうなれば財閥の邸宅なのです
低い丘陵を背景に約3000坪という広大な敷地と、約1000坪の建物延べ床面積を持ち
枯山水の庭園、長屋門、主屋、表書院、土蔵、茶室などが一体的に残っているのが特徴らしいです

ぎょえーー!さすが大富豪!広さが半端ないです@@
あ、いかんいかん、門を入ってすぐから怖気づいてる(笑)
さ、くぐり戸を抜けてっと・・・
ここは、内玄関とな、げげっこんなに大きい^^;
どれだけの部屋数があるのかいな

さらに進むと、こちらが表玄関、お、中庭が見えていますよ

ちょっと大き目のくぐり戸、さらに奥には立派な庭が^^

前庭には貴賓が駕籠をとめるお駕籠石が配されています

この庭が見える部屋が表書院、今で言う応接間です、広っ!!

上の間、下の間、茶室と全部で三十畳くらいあるようです
キンキラキンの襖に黒縁取りの波形の欄間、超豪華ーー☆
おおー、これも圧巻、梁は一本の地松だそうです

こちらは水琴窟(すいきんくつ)

手前に立てかけてある竹筒に耳を当て、水の音を楽しみます
竹で聞くせいか、すごく澄んだ心が洗われるようなきれいな音がとてもよく聞こえました
いろんな木々が植えられている庭、さつきにはちょっと早かったみたい^^;

ここは中座敷、野崎家の住まいの中心となったところです
どれだけ繋がっていると思います?

42m、九つの部屋が連なっているということです
運動会ができそうですよね(笑)
広い庭にはお茶室が三席もあったり、大きな桧や苔がいろんな調和を見せていました


裏にまわると、要塞のような石垣が現れました

これがただの石垣じゃないんですよ
高さは10m以上、丘に合わせてうねりが作ってあり、圧倒されます

これを書くにあたって調べていたら、この中に高度な技術を要した扇面の石があるとのこと
明治~大正時代にかけて造られた石垣、はい、目を凝らして撮った写真を探しましたとも!
そうしたら偶然写っていました(笑)

こちらは台所、なんとかまどの多いこと
何人分を作っていたんでしょうね^^

調度品も贅沢なものでしたよ^^
大正時代のオールドノリタケなんかもありました、かわいかった~♪

向座敷の上部にあるガラス張りのアレは何だろうか、見張り部屋?

台所の横には夜具蔵
蔵に入れなきゃならないほど、たくさんの布団があったんでしょうね

それにしても外壁の「焼き杉」は「焼き過ぎ」じゃありませんか?(爆)

建物がたくさんなので、敷地内でも風情のある景色がどこかしこにありました


だって、蔵だけでも7つあるんですから^^;


蔵は“商人のお城”とも言われ、富の象徴だというわけです
その中のひとつ、一番大きい大蔵は展示館になっています
これはポーランド産の岩塩、重さ当てをしていました(答え忘れちゃった^^;)

昔の塩作りの道具なども展示されていましたよ

現在でも野崎家は市内にてナイカイ塩業という製塩会社を経営していて
国内トップシェアを誇っているそうです
疎いのでちっともわかりませんが、絵や字が書かれた屏風や掛け軸がたくさんありました
たぶん高価なものなんでしょう(貧乏人なので・・^^;)

いやいやお金持ちというのはどんだけの度量があったのでしょうか


蔵の窓も同じものがありませんでした

パンフには“山陽道の代表的な民家”と書いてありましたが
民家とは違うだろっ!民家とは一般庶民の家っつうことでしょーが
ここは“山陽道の代表的な豪邸”と改めてほしいと思った熟年でした(笑)

上の写真は文久3年(1863年)に塩釜明神の御神燈として
また、浜へ出入りする船の夜間照明のための灯台として建てられた旧野崎浜灯明台です
<旧野崎家住宅>
[所在地]岡山県倉敷市児島味野1-11-19
[TEL]086-472-2001
[料金]大人(高校生以上)500円、小中学生 300円
[アクセス]地図はコチラ
今日はグルメねたも少し紹介しときます^^
大橋家を見学した後、お昼には少し早かったのですが朝が早かった二人
通りからちょっと外れたバイキングランチのお店を見つけ入店♪
夜は居酒屋をやっているのでしょう
九州の黒霧や赤霧の焼酎もたくさん並んでいました^^
バイキング料理、結構品数が並んでおりました
居酒屋料理ですが、ひと手間かけた料理ばかり
後から、二切れですがカンパチのお刺身まで出てきました^^
最後は、珈琲と小さな手づくりスイーツまで
思わず儲けありますかと聞いちゃいました
倉敷の名物料理ではありませんでしたが、もう二人とも大満足でした^^
食で満足するって大切ですよね
この日は一日中、幸せな気分でした♪
鶴形山阿智神社の参道を上ることなく下ってきた熟年夫婦
この辺りの南麓は「本町・東町」といい、庶民的な雰囲気の町家が立ち並び
美観地区の中では若者世代よりも熟年世代が好む空間が続いています
その中に昔ながらの土蔵や町家を改装したカフェ、居酒屋などがたくさんあります
美観地区を今朝から歩いてて思ってたんですが、美観といいながら電信柱や電線が多いと思いませんか
その中に生活があるので仕方ないとは思うんですが
行政は電線の地中化なんかも考えて欲しいなと思ったらぼっちなのでした
ひと休みと決めていたカフェはお客さんが外までズッラーと並んでいて断念♪
で、ぶらぶらしているとお客さんが群がっている一角あり
元祖「醤油ぶっかけソフト」
そういえば大分の臼杵にもありましたっけ
二人で半分こ♪
醤油そのものではなく香り深いカラメルでした
この後向かったのは、美観地区の中でもちょっと異彩を放つ「倉敷アイビースクエア」
裏口の西門の方から来ちゃいましたね
こちらには江戸時代、幕府の代官所があったんですね
明治22年に倉敷紡績工場が建設され、昭和48年に観光施設として再生されました
平成19年には「近代化産業遺産」に認定されています
それでは工場時代の名残を見つけに参りましょう
入ってすぐ横にあるのが「児島虎次郎記念館」
この赤レンガに囲まれた空間がたまりません^^
「倉紡記念館」に入ろうと思い、何が見られるか尋ねると
窓口のおばさんが横柄な態度で分かりにくい返事、気分を害したので止めました^^;
しばらく行くと施設の象徴でもある蔦に覆われた「アイビー学館」が現れます
まさしく、アイビーという言葉以外には思いつかない姿です^^
この蔦は西陽のため工場内の温度上昇を調節するために植えられたそうです
左奥はオルゴールミュゼ、左側の大きな木はメタセコイア
その周囲を歩いていると当時の名残「鉄鈴」みっけ♪
始業終業の合図に使われていたんですね
蔦で見にくいですが、上の方に50cmくらいの鉄鈴が2個並んでいるのがわかりますか
建物の中は藍染めの展示がありましたが、とっちんの撮るのは壁ばかり^^;
とっちんが若かりし頃、訪れた記憶があったところが皆さんが寛いでいるこちらの「広場」
倉敷の町並みは全く思い出せなかったようなので、よかったよかった記憶が繋がって^^
熟年夫婦もこちらで、しばし休憩♪
広場の周囲はホテルになっていて、アイビースクエアの入口もこちらが正門のようです
倉敷の風情ある町並みとレトロな近代遺産を楽しんだ熟年
さて次に目指すは?^^
大橋家を見学した後、お昼には少し早かったのですが朝が早かった二人
通りからちょっと外れたバイキングランチのお店を見つけ入店♪

夜は居酒屋をやっているのでしょう
九州の黒霧や赤霧の焼酎もたくさん並んでいました^^

バイキング料理、結構品数が並んでおりました
居酒屋料理ですが、ひと手間かけた料理ばかり

後から、二切れですがカンパチのお刺身まで出てきました^^

最後は、珈琲と小さな手づくりスイーツまで
思わず儲けありますかと聞いちゃいました

倉敷の名物料理ではありませんでしたが、もう二人とも大満足でした^^
食で満足するって大切ですよね
この日は一日中、幸せな気分でした♪
鶴形山阿智神社の参道を上ることなく下ってきた熟年夫婦

この辺りの南麓は「本町・東町」といい、庶民的な雰囲気の町家が立ち並び
美観地区の中では若者世代よりも熟年世代が好む空間が続いています

その中に昔ながらの土蔵や町家を改装したカフェ、居酒屋などがたくさんあります
美観地区を今朝から歩いてて思ってたんですが、美観といいながら電信柱や電線が多いと思いませんか
その中に生活があるので仕方ないとは思うんですが
行政は電線の地中化なんかも考えて欲しいなと思ったらぼっちなのでした
ひと休みと決めていたカフェはお客さんが外までズッラーと並んでいて断念♪

で、ぶらぶらしているとお客さんが群がっている一角あり
元祖「醤油ぶっかけソフト」
そういえば大分の臼杵にもありましたっけ

二人で半分こ♪
醤油そのものではなく香り深いカラメルでした

この後向かったのは、美観地区の中でもちょっと異彩を放つ「倉敷アイビースクエア」
裏口の西門の方から来ちゃいましたね

こちらには江戸時代、幕府の代官所があったんですね

明治22年に倉敷紡績工場が建設され、昭和48年に観光施設として再生されました
平成19年には「近代化産業遺産」に認定されています

それでは工場時代の名残を見つけに参りましょう
入ってすぐ横にあるのが「児島虎次郎記念館」
この赤レンガに囲まれた空間がたまりません^^

「倉紡記念館」に入ろうと思い、何が見られるか尋ねると
窓口のおばさんが横柄な態度で分かりにくい返事、気分を害したので止めました^^;
しばらく行くと施設の象徴でもある蔦に覆われた「アイビー学館」が現れます

まさしく、アイビーという言葉以外には思いつかない姿です^^
この蔦は西陽のため工場内の温度上昇を調節するために植えられたそうです

左奥はオルゴールミュゼ、左側の大きな木はメタセコイア

その周囲を歩いていると当時の名残「鉄鈴」みっけ♪
始業終業の合図に使われていたんですね

蔦で見にくいですが、上の方に50cmくらいの鉄鈴が2個並んでいるのがわかりますか

建物の中は藍染めの展示がありましたが、とっちんの撮るのは壁ばかり^^;

とっちんが若かりし頃、訪れた記憶があったところが皆さんが寛いでいるこちらの「広場」
倉敷の町並みは全く思い出せなかったようなので、よかったよかった記憶が繋がって^^
熟年夫婦もこちらで、しばし休憩♪

広場の周囲はホテルになっていて、アイビースクエアの入口もこちらが正門のようです

倉敷の風情ある町並みとレトロな近代遺産を楽しんだ熟年
さて次に目指すは?^^
<アイビースクエア>
[アクセス]地図はコチラ
今日は朝から次男を連れて田川の実家へ行ってます
風呂のボイラーが壊れかけてる?けど、東日本震災でなかなか入荷しないとのこと
いろんな所に影響がでてますね
さぁ倉敷、第3弾です^^
大橋家を見学した後、食事となりましたがその話はまた明日♪
次にめざすは「鶴形山」、ここにはお寺や神社があるというのもありますが
美観地区を見下ろすスポットでもあるんです
山へ向かう通りでも、きょろきょろのしっぱなし
皆さんも、飽きないでしょ^^
着物姿の女性は町並みに良く似合います^^
あれっ、阿智神社の西参道に出ちゃいましたよ
そうそう、この時期は”藤まつり”の最中なんですよ
正面の参道から登ろうということで、本通りを東へ♪
でも、後で知ったんですがこれを上がったところに
巨石などのパワースポットがあったんです(>_<)
とっちんを惹き付けた建物がこちら、「旧倉敷銀行」で現在の中国銀行
大原孫三郎が大正11年に建築したもので、ルネッサンス様式を備えています
外から見てもステンドグラスの美しさはわかりません、平日だったら中から見れたのにね^^
と、ここで振り返ると、おいでおいでと誘っている石段、「観龍寺」です
なになに、左側の潜り門には長州藩一隊が攻め入った時の槍の傷跡があるとな?

本堂は移転や焼失に遭いながらも、寛永2年(1749年)に再建されたものです
境内の鐘楼では、アジアの若い娘さんが通路に鞄を置きっぱなしにして
写真を撮りまくっていました♪
もう一人が本堂をこの角度からも撮影してたな、なるほどね♪
心打つ一瞬は万人共通ということでしょう^^
このまま、向かったのは、岡山県天然記念物「阿知の藤」
藤は倉敷市の市花に制定されています
根元周囲は約2.2mで、アケボノフジという珍種の中では全国一の巨樹
20m四方に枝を広げ、淡紅色の花が大藤棚一面に咲き誇る様は可憐でいて見応えがある
と紹介されてあったので、期待しましたが
あれっ、”藤まつり”期間中なのに、棚より下に垂れ下がっていませんよ
よく見ると短い房が棚の上には見えますが、まだちょっと早かったのかな^^;
鶴形山に登ってきてしまったので、そのまま「阿智神社」へ向かいました
玄関である表参道からではなく、勝手口からお邪魔した感じですね♪
阿智神社は旧倉敷総鎮守の宮として人々の尊崇を集めてきました
祭神は皇祖神、天照大御神と素盞鳴尊の娘神の宗像三女神
結びの神様でもあり結婚式が多く行われるそうです^^
これは古代祭祀場であったとされる鶴と亀を模した石組みです
が、うーん正直言って、そんな風には見えなかったかな^^
この神社の休憩所からは美観地区が一望できます
左側隅が観光案内所の「倉敷館」、右側隅が「大原美術館」、その下に「緑御殿」が見えます
夜はライトアップされてまた違った空間を見せる美観地区
その全体をここから眺めるのも一興みたいですよ♪
熟年はデジカメだし、他に見たいのがありますから
暗くなるまでここに居残るわけにはいきません^^
楼門も帰り際、振り返りながら撮るのも初めてではなかろうか^^;
この表参道の石段が面白いんです
楼門の手前が厄除坂、中段が還暦坂、下段が米寿坂
本当だったら上るときにだんだんと若返るんですが
下りるときに気づいても老いていくばっかり^^
でもこの坂を下りると、またまた観光客が集まる通りなんです
この続きは、また明日♪
風呂のボイラーが壊れかけてる?けど、東日本震災でなかなか入荷しないとのこと
いろんな所に影響がでてますね
さぁ倉敷、第3弾です^^
大橋家を見学した後、食事となりましたがその話はまた明日♪
次にめざすは「鶴形山」、ここにはお寺や神社があるというのもありますが
美観地区を見下ろすスポットでもあるんです
山へ向かう通りでも、きょろきょろのしっぱなし
皆さんも、飽きないでしょ^^

着物姿の女性は町並みに良く似合います^^

あれっ、阿智神社の西参道に出ちゃいましたよ

そうそう、この時期は”藤まつり”の最中なんですよ
正面の参道から登ろうということで、本通りを東へ♪
でも、後で知ったんですがこれを上がったところに
巨石などのパワースポットがあったんです(>_<)
とっちんを惹き付けた建物がこちら、「旧倉敷銀行」で現在の中国銀行

大原孫三郎が大正11年に建築したもので、ルネッサンス様式を備えています

外から見てもステンドグラスの美しさはわかりません、平日だったら中から見れたのにね^^

と、ここで振り返ると、おいでおいでと誘っている石段、「観龍寺」です



なになに、左側の潜り門には長州藩一隊が攻め入った時の槍の傷跡があるとな?


本堂は移転や焼失に遭いながらも、寛永2年(1749年)に再建されたものです

境内の鐘楼では、アジアの若い娘さんが通路に鞄を置きっぱなしにして
写真を撮りまくっていました♪
もう一人が本堂をこの角度からも撮影してたな、なるほどね♪

心打つ一瞬は万人共通ということでしょう^^
このまま、向かったのは、岡山県天然記念物「阿知の藤」
藤は倉敷市の市花に制定されています

根元周囲は約2.2mで、アケボノフジという珍種の中では全国一の巨樹
20m四方に枝を広げ、淡紅色の花が大藤棚一面に咲き誇る様は可憐でいて見応えがある
と紹介されてあったので、期待しましたが

あれっ、”藤まつり”期間中なのに、棚より下に垂れ下がっていませんよ
よく見ると短い房が棚の上には見えますが、まだちょっと早かったのかな^^;

鶴形山に登ってきてしまったので、そのまま「阿智神社」へ向かいました
玄関である表参道からではなく、勝手口からお邪魔した感じですね♪

阿智神社は旧倉敷総鎮守の宮として人々の尊崇を集めてきました
祭神は皇祖神、天照大御神と素盞鳴尊の娘神の宗像三女神
結びの神様でもあり結婚式が多く行われるそうです^^

これは古代祭祀場であったとされる鶴と亀を模した石組みです
が、うーん正直言って、そんな風には見えなかったかな^^
この神社の休憩所からは美観地区が一望できます
左側隅が観光案内所の「倉敷館」、右側隅が「大原美術館」、その下に「緑御殿」が見えます

夜はライトアップされてまた違った空間を見せる美観地区
その全体をここから眺めるのも一興みたいですよ♪
熟年はデジカメだし、他に見たいのがありますから
暗くなるまでここに居残るわけにはいきません^^
楼門も帰り際、振り返りながら撮るのも初めてではなかろうか^^;

この表参道の石段が面白いんです
楼門の手前が厄除坂、中段が還暦坂、下段が米寿坂


本当だったら上るときにだんだんと若返るんですが
下りるときに気づいても老いていくばっかり^^
でもこの坂を下りると、またまた観光客が集まる通りなんです

この続きは、また明日♪
<阿智神社>
[アクセス]地図はコチラ
今日は次男が1年ぶりに帰ってきました
例年まとまった休みが取れず、この時期帰ってくるのはとても珍しいこと
今夜はストレス解消にゆっくり酒を飲みながら話を聞いてやろうかな~^^
え、余計ストレスが溜まるんじゃないかって?
はい、ほどほどにしておきます(笑)
さて倉敷の第2弾です
昨年の日本経済新聞『散策したい歴史ある町並み』の第4位にが選ばれ
和と洋、レトロとモダンが融合した歴史情緒ある商家町、倉敷美観地区
ひとつひとつじっくり見たいところですが
そんなことしていたら3日くらいかかりそうなので、ざーっと見ることにしました(笑)
大勢の人で賑わっている大原美術館には目もくれず
美術館前の倉敷川に架かる今橋を渡ったところにある「旧大原家住宅」を眺める^^;
そう、残念ながらここは外観の見学のみで入館はできないんです
江戸時代後期のこの地方の代表的な町屋の一つで
主屋をはじめ離座敷、内倉、倉など10棟と土地が国の重要文化財に指定されているんですよね~
ご存知のように天領だった倉敷では、旧来「古禄」と呼ばれる世襲の勢力が栄えていましたが
新田・塩田開発と倉敷川の水運の利を生かして「新禄」という商人の新興勢力が台頭してきました
その中でもこの大原家は筆頭格で綿仲買商人として大いに発展していくわけです
クラボウ、クラレ、中国銀行、中国電力などの基礎を造り上げた大財閥ですから
さぞ贅沢なお屋敷なんでしょうね~
そしてこちらは大原孫三郎が妻のために建てた大原家の別邸
泉州谷川の窯で特別に作られた瓦は見る角度によって微妙な緑色に光り
「緑御殿」とも呼ばれているようです
こちらも外観のみを満喫しその場を離れました
ところが、大原美術館主催の特別展会場として年数回しか公開されないとのこと
えーっ、帰ってきてからわかってもねーー(笑)
それから向かったのは「新禄」のもうひとつの代表である「大橋家住宅」です
やはり主屋や長屋門・米蔵・内蔵の4棟が国の重要文化財に指定されています
あっはーー、昔の家は広すぎて何がなんだかよーわからん(笑)
我が家が住むには表門の右側だけで充分、それでも4部屋あるんですから(笑)
たぶん、使用人の部屋だったんでしょうね
もともと「大橋家」の先祖は豊臣家に仕えた武士だったということです
幕府の追及を逃れ倉敷に移り住み、大地主となり大きな財をなしていきました
後から聞いた話では、土間に米千俵が置いてあったとか
米蔵には三百俵ということだったので、どんだけかって思いました^^;
主屋の二階は5本の格子が入れてある“倉敷窓”が見えます
入り口には上棟札がたくさん掲げてありました
一階には親竪子の間に上端を切りつめた細くて短い子を3本入れた
親付切子格子とも言われる大きな“倉敷格子”が目につきます
内側から見るとこんな感じです
祭礼の時はこの格子を外し毛氈を敷き秘蔵の屏風を立てて富を誇示したようです
ひょえ~、ということはこの格子が大きければ大きいほど豪家の象徴ということでしょうか
この日は春の花展が催されていました
が、目的が違う熟年ふたりは、申し訳ないけど花には全く興味なしです(笑)
欄間もさすが倉敷川で発展した場所、波が描かれています
床の間は地味に落ち着いています^^
その上の間から見た庭、そんなに広くはないけどとてもいい感じ
こちらはもっと小さいほうの庭
大きな壷の中にはめだかが泳いでいましたよ^^
土間の裏入り口から台所を見たところ
この土間の吹き抜けがとても高くて、5mもある鯉のぼりが飾ってありました
暗くて黒っぽい天井が華やかに、そしてそれだけ高いってことですが
寂しくしょんぼりぶら下がっていました
鯉は青い空を泳ぎたいんじゃないかとちょっと思っちゃいました^^;


裏から見た蔵、なまこ壁が美しい♪
蔵の中の壁はもっと趣きがあり、丸くなった板階段とよくマッチしていました
この壁は、なまこ壁のように盛り上がらない平目地瓦張といわれるものです
随所に倉敷らしい特徴を持ち、利便性も豪華さもあるお屋敷でした
こちらは今回のように展覧会や作品展が催されるほか、結婚式なども行われているようですよ
綿帽子や内掛け姿はこの白壁やお座敷によく映えるでしょうね^^
例年まとまった休みが取れず、この時期帰ってくるのはとても珍しいこと
今夜はストレス解消にゆっくり酒を飲みながら話を聞いてやろうかな~^^
え、余計ストレスが溜まるんじゃないかって?
はい、ほどほどにしておきます(笑)
さて倉敷の第2弾です
昨年の日本経済新聞『散策したい歴史ある町並み』の第4位にが選ばれ
和と洋、レトロとモダンが融合した歴史情緒ある商家町、倉敷美観地区
ひとつひとつじっくり見たいところですが
そんなことしていたら3日くらいかかりそうなので、ざーっと見ることにしました(笑)
大勢の人で賑わっている大原美術館には目もくれず
美術館前の倉敷川に架かる今橋を渡ったところにある「旧大原家住宅」を眺める^^;

そう、残念ながらここは外観の見学のみで入館はできないんです
江戸時代後期のこの地方の代表的な町屋の一つで
主屋をはじめ離座敷、内倉、倉など10棟と土地が国の重要文化財に指定されているんですよね~

ご存知のように天領だった倉敷では、旧来「古禄」と呼ばれる世襲の勢力が栄えていましたが
新田・塩田開発と倉敷川の水運の利を生かして「新禄」という商人の新興勢力が台頭してきました
その中でもこの大原家は筆頭格で綿仲買商人として大いに発展していくわけです

クラボウ、クラレ、中国銀行、中国電力などの基礎を造り上げた大財閥ですから
さぞ贅沢なお屋敷なんでしょうね~
そしてこちらは大原孫三郎が妻のために建てた大原家の別邸

泉州谷川の窯で特別に作られた瓦は見る角度によって微妙な緑色に光り
「緑御殿」とも呼ばれているようです

こちらも外観のみを満喫しその場を離れました
ところが、大原美術館主催の特別展会場として年数回しか公開されないとのこと
えーっ、帰ってきてからわかってもねーー(笑)
それから向かったのは「新禄」のもうひとつの代表である「大橋家住宅」です

やはり主屋や長屋門・米蔵・内蔵の4棟が国の重要文化財に指定されています
あっはーー、昔の家は広すぎて何がなんだかよーわからん(笑)

我が家が住むには表門の右側だけで充分、それでも4部屋あるんですから(笑)
たぶん、使用人の部屋だったんでしょうね
もともと「大橋家」の先祖は豊臣家に仕えた武士だったということです
幕府の追及を逃れ倉敷に移り住み、大地主となり大きな財をなしていきました
後から聞いた話では、土間に米千俵が置いてあったとか
米蔵には三百俵ということだったので、どんだけかって思いました^^;

主屋の二階は5本の格子が入れてある“倉敷窓”が見えます
入り口には上棟札がたくさん掲げてありました

一階には親竪子の間に上端を切りつめた細くて短い子を3本入れた
親付切子格子とも言われる大きな“倉敷格子”が目につきます

内側から見るとこんな感じです

祭礼の時はこの格子を外し毛氈を敷き秘蔵の屏風を立てて富を誇示したようです
ひょえ~、ということはこの格子が大きければ大きいほど豪家の象徴ということでしょうか
この日は春の花展が催されていました
が、目的が違う熟年ふたりは、申し訳ないけど花には全く興味なしです(笑)

欄間もさすが倉敷川で発展した場所、波が描かれています

床の間は地味に落ち着いています^^

その上の間から見た庭、そんなに広くはないけどとてもいい感じ

こちらはもっと小さいほうの庭
大きな壷の中にはめだかが泳いでいましたよ^^

土間の裏入り口から台所を見たところ

この土間の吹き抜けがとても高くて、5mもある鯉のぼりが飾ってありました

暗くて黒っぽい天井が華やかに、そしてそれだけ高いってことですが
寂しくしょんぼりぶら下がっていました
鯉は青い空を泳ぎたいんじゃないかとちょっと思っちゃいました^^;




裏から見た蔵、なまこ壁が美しい♪

蔵の中の壁はもっと趣きがあり、丸くなった板階段とよくマッチしていました
この壁は、なまこ壁のように盛り上がらない平目地瓦張といわれるものです

随所に倉敷らしい特徴を持ち、利便性も豪華さもあるお屋敷でした

こちらは今回のように展覧会や作品展が催されるほか、結婚式なども行われているようですよ
綿帽子や内掛け姿はこの白壁やお座敷によく映えるでしょうね^^

<大橋家住宅>
[所在地] 岡山県倉敷市阿知3-21-31
[開館時間] 9:00~17:00(季節により延長あり)
[入館料] 大人 500円
高齢者(65歳以上) 300円
小・中学生 300円
[休館日] 3月~11月は休館日なし
12月28日~1月3日休館
12月・1月・2月は金曜日休館(祝日は開館)
[アクセス] 地図はコチラ
GWの計画はまったくナッシングだった熟年ですが
28日の夜、急遽どこか出かけようよ、と話し合い開始! 6月からは、祝日はどこまで行っても千円の高速料金割引が終了との話もあるし
この際、景気回復のため?にも遠出しようかとなりました
いろんな候補地が挙がりましたが、とっちんの一言で行き先は決定^^;
30日の朝4時15分に家を出発、到着した時刻は10時
走った距離は約530km!!
と言われても、分かりませんよね、到着した場所は
<ヒント1> こんな建物が何処かしこに

<ヒント2> お堀と合いまった景観

<ヒント3> この方の出身でもあります

分からなかった方、答えはここです^^v

倉敷市の美観地区です

江戸時代初期の1642年、江戸幕府の天領に定められた際に倉敷代官所が当美観地区に設けられ
以来備中国南部の物資の集散地として発展した歴史を持つ。
倉敷川の畔から鶴形山南側の街道一帯に白壁なまこ壁の屋敷や蔵が並び
天領時代の町並みをよく残しており、1979年(昭和54年)に県内2件目となる
重要伝統的建造物保存地区に選定されている。(Wikipediaより)
重要伝統的建造物の中でも特に目を引いたのがこちら
おーっ、引かれてる、惹かれてる^^

「倉敷民芸館」です

江戸時代後期に建てられた米倉を活用した古民家再生の第1号なんですね
目の付け所が違うね、熟年夫婦♪
国内や世界各地の民芸品が陳列されているようですが、熟年が惹かれたのは建物そのもの
だって入口からこの景観ですよ♪

では一緒にご覧あれ^^
陶磁器、ガラス、染織物、木工品、レトロな家具などが並べられてます
最近、パーツを切り取る構図がどなたかの影響で増えてきました^^;




2階からの風景がいいでしょう♪


時代を感じさせる白壁と黒い瓦のコントラスト


このガラスを透してみるゆがんだ景色もたまりませんね

もう言葉はいりませんよね
決して、記事を簡単に終わらせようとしていわけではありませんから^^
美観地区の中心であり象徴でもある中橋周辺です
360度、何処を向いても絵になるとはこのこと

後ろの建物は5枚目の写真の「倉敷館」、今は観光案内所になってます

「倉敷考古館」のなまこ壁
この人力車のおじさんとは何度も出会いましたが、いい雰囲気に溶け込んでましたよ^^

路地をひょいとのぞくと、こんな風景がいたる所にあるんですよ

二人して一台のカメラを取り合ってました^^
いいなぁ、倉敷♪

幕府直轄の天領で、商人の町というところは「日田」と同じですね
商人の心意気という意味では日田の方が活気があったかも^^
それでは、そろそろ熟年夫婦コースに参りましょうかね♪
<倉敷民芸館>
[所在地] 岡山県倉敷市中央1-4-11
[TEL] 086-422-1637
[開館時間] (3月~11月)午前9時~午後5時(午後4時45分受付終了)
(2月~2月)午前9時~午後4時15分(午後4時受付終了)
[休日] 月曜(祝日の場合開館)
[料金] 大人700円 / 学生(大・高)400円・(中・小)300円
[アクセス] 地図はコチラ
[所在地] 岡山県倉敷市中央1-4-11
[TEL] 086-422-1637
[開館時間] (3月~11月)午前9時~午後5時(午後4時45分受付終了)
(2月~2月)午前9時~午後4時15分(午後4時受付終了)
[休日] 月曜(祝日の場合開館)
[料金] 大人700円 / 学生(大・高)400円・(中・小)300円
[アクセス] 地図はコチラ
さて4月23日土曜日も、ようやく最後の記事です
最後も石橋ネタ、さらっといきましょうね^^
それは石橋とは似つかわしくない、丘の上の山鹿市博物館前にありました
「大坪橋」です
この石橋は長さ23.2m、幅2.4mの水路橋で、1865年に惣庄屋福田春蔵によって架けられました
この眼鏡橋は幕末の名惣庄屋福田春蔵が慶応元年頃(1865年頃)宗方・中村地区の住民が
水利に乏しく、干害に苦しむのを憂え、寺島井出の用水を引くため
関係地区民とともに苦心惨憺して、吉田川右岸のもと
熊入字大坪86-2番地から山鹿字七ッ石1976-2番地へ架橋されたものである。
この橋は矢部町にある通潤橋につぐ全国第二位の用水橋であり、二連橋としては
県下170基のうち第十一位にかぞえられ、すばらしい造形美をみせる石の芸術である。
築造以来昭和28年9月26日までの約百年間その恩恵は実に多大なものがあった。
今般吉田川河川改修工事によってやむなく撤去せざるを得なくなったが、
先人の偉業を偲ぶためにぜひ保存したいとの強い要望があり
県の協力を得てここに復元移築したものである。(石碑:大坪橋の由来より)
河川改修のため、こちらに移築したようですね
どこかの橋でもそうだったけど、移築する際に石に打ったペンキの番号がそのまま残されているんです
普通は後で消しますよね、消せないようなペンキで書かないように指示するでしょう
建設当時の技術に素直に負けを認めているということでしょうか^^;
ここ山鹿市博物館周辺には周辺の記念碑等が集められています
こちらは専立寺の板碑です
見覚え、聞き覚えのある梵字だと思ったら、相良寺の守護尊と同じキリークではありませんか
それは戌年らぼっちの守護尊でもある阿弥陀如来様ですよ^^
早速、ちょいと勉強したことが活かされました^^

他にも同じく河川改修で撤去された熊入橋の記念碑や
西南戦争当時の山鹿口・弾痕の碑
でもね、弾痕の碑って、プラスティック板のレプリカじゃ~、興醒めしませんか^^;
他にも西南戦争の大きな錦絵(撮ってないし)などもありました
でも歴史文化財が多数あるわりには人影はほとんど見られず^^
さて、本当にこれで最後は肥後古代の森にある「通水橋」
まだ、石橋かい♪
とっちんがこんなに石橋フリークとは知らんかった^^;
さすがにらぼっちは車から下りませんでしたよ
ここから下は見てきたとっちんに語ってもらいましょう♪
はいは~い、とっちんです、ご紹介しましょうかね
こちらは以前鹿蓮の花を見に来たところでもありますが
蓮ばかりに目がいき、その時は全然気がつきませんでした
時は江戸時代中期、中富手永の惣庄屋・新野尾清左衛門・伊平の頃に
道路・用水路・石積みなどを数多く建設しているので、その頃のものではないかと思われています
水路自体はわずかな長さですが
今でも道路を挟んで山の方から蓮園まで水が引かれているようです
とてもちっちゃな橋ですが
この通水橋によって人々に潤いがもたらされたことに間違いはないでしょう
“石橋”と言ってひとくくりには出来ないってことがおわかりいただけたでしょうか^^
な~んて、とっちんの薀蓄も一夜漬けのようなもので
語るにはあまりにもおこがましいのですが
石と技術が物語る石橋を一度見に行かれてみてはいかがでしょう
結構おもしろいもんですよ~^^
最後も石橋ネタ、さらっといきましょうね^^
それは石橋とは似つかわしくない、丘の上の山鹿市博物館前にありました
「大坪橋」です

この石橋は長さ23.2m、幅2.4mの水路橋で、1865年に惣庄屋福田春蔵によって架けられました

この眼鏡橋は幕末の名惣庄屋福田春蔵が慶応元年頃(1865年頃)宗方・中村地区の住民が
水利に乏しく、干害に苦しむのを憂え、寺島井出の用水を引くため
関係地区民とともに苦心惨憺して、吉田川右岸のもと
熊入字大坪86-2番地から山鹿字七ッ石1976-2番地へ架橋されたものである。
この橋は矢部町にある通潤橋につぐ全国第二位の用水橋であり、二連橋としては
県下170基のうち第十一位にかぞえられ、すばらしい造形美をみせる石の芸術である。
築造以来昭和28年9月26日までの約百年間その恩恵は実に多大なものがあった。
今般吉田川河川改修工事によってやむなく撤去せざるを得なくなったが、
先人の偉業を偲ぶためにぜひ保存したいとの強い要望があり
県の協力を得てここに復元移築したものである。(石碑:大坪橋の由来より)
河川改修のため、こちらに移築したようですね

どこかの橋でもそうだったけど、移築する際に石に打ったペンキの番号がそのまま残されているんです
普通は後で消しますよね、消せないようなペンキで書かないように指示するでしょう
建設当時の技術に素直に負けを認めているということでしょうか^^;

ここ山鹿市博物館周辺には周辺の記念碑等が集められています
こちらは専立寺の板碑です
見覚え、聞き覚えのある梵字だと思ったら、相良寺の守護尊と同じキリークではありませんか

それは戌年らぼっちの守護尊でもある阿弥陀如来様ですよ^^
早速、ちょいと勉強したことが活かされました^^


他にも同じく河川改修で撤去された熊入橋の記念碑や

西南戦争当時の山鹿口・弾痕の碑
でもね、弾痕の碑って、プラスティック板のレプリカじゃ~、興醒めしませんか^^;

他にも西南戦争の大きな錦絵(撮ってないし)などもありました
でも歴史文化財が多数あるわりには人影はほとんど見られず^^
さて、本当にこれで最後は肥後古代の森にある「通水橋」
まだ、石橋かい♪
とっちんがこんなに石橋フリークとは知らんかった^^;
さすがにらぼっちは車から下りませんでしたよ
ここから下は見てきたとっちんに語ってもらいましょう♪
はいは~い、とっちんです、ご紹介しましょうかね
こちらは以前鹿蓮の花を見に来たところでもありますが
蓮ばかりに目がいき、その時は全然気がつきませんでした

時は江戸時代中期、中富手永の惣庄屋・新野尾清左衛門・伊平の頃に
道路・用水路・石積みなどを数多く建設しているので、その頃のものではないかと思われています

水路自体はわずかな長さですが
今でも道路を挟んで山の方から蓮園まで水が引かれているようです

とてもちっちゃな橋ですが
この通水橋によって人々に潤いがもたらされたことに間違いはないでしょう

“石橋”と言ってひとくくりには出来ないってことがおわかりいただけたでしょうか^^
な~んて、とっちんの薀蓄も一夜漬けのようなもので
語るにはあまりにもおこがましいのですが
石と技術が物語る石橋を一度見に行かれてみてはいかがでしょう
結構おもしろいもんですよ~^^
<大坪橋>
[アクセス]地図はコチラ
<通水橋>
[アクセス]地図はコチラ