山吹水源や扇田の風景を満喫した後、産山村のせまい道を南下
のんびりした風景の中に「乙宮神社」はありました
広い道もありましたが、参道はたぶんこっちだろうと
名前の掲げられていない鳥居をくぐると大きな杉が出迎えてくれました
左下に田植えが終わったばかりの水田を見下ろし
ゲコゲコ鳴く蛙たちの合唱を聞きながら歩くのも、なんかおもしろい^^
やはりこちらが表参道でした
しっかり手すりもついていましたよ
拝殿は新しいようですね
この乙宮神社は阿蘇神社の摂社で勧請年代は不詳
産山村では、阿蘇大神御嫡孫、御生誕の地は乙宮であり
「産山」という地名の起こりであると言い伝えられているそうです
実は、ここに寄ってみようと思ったのは「榧(かや)」の木が見たかったからなのです
本殿の素晴らしい彫刻をもチラ見だけで通り過ぎ
バチ当たりな熟年夫婦は、その村指定天然記念物である榧を探しました
が、270年の凛とした美しい姿をどこにも発見できず・・
あるのはちょっと目立つイチョウの木と御神木の夫婦スギだけ^^;
帰ってからよくよく調べてみると
参道を少し離れて森の中に入らなければならなかったらしい
全体がこんもりした森になっているので、参道に案内が欲しかったな
ちょっと後ろ髪を引かれながら、再び村道を南下
お?っと、小さい看板みっけー!縦が30センチくらいのものです
ちと、汚れてて見苦しいな^^;
拭いてもきれいにはなりませんでした
「川久保橋」です
「産山川に架かる石橋としては、最上流に位置する。
現存する5石橋の中では、最も新しい昭和10年(1935年)の完成。
形も他の4橋と違い、流線型の見事なアーチ橋をなす。
時代が新しいだけに、幅員も最初からあったらしく
拡幅改修時のコンクリート張り出しは他橋に比べて少ない。
野田寅蔵最後の作といわれている。全長20m、幅員4m」
と書かれています
もともとは明治20年(1887年)に架けられていたようですが
昭和10年に修復されたということらしいです
よく見ると、この看板の横にはニョロの出そうな細?い道がありました
らぼっちはためらいましたが、とっちんはすたすたと歩いて行ってしまいました
下りてみるとすぐに冷たい水の流れる川原に着きました
橋のほうに振り返ると
赤っぽいきれいな造りの橋がモミジの葉の間から見えました
何事もなかったように、またしても南下
そしてまたまた看板発見!!
「小園の石橋と滝」
「小園橋は、大正11年(1922)築造というから今年で82年。
やはり野田寅蔵の作とされている。
橋の幅員は今でこそ4.5mあるが、実際下から望むと石橋部分はその半分しかない。
滝から見上げるコントラストは往時の姿そのまま。
石橋の長さ10.2m、幅員4.5m、滝の落差5.8m・幅12m」
と書いてあります
ほうほう、石橋と滝が見られるんだ
と再び川に下りてみます
こちらはちゃんとコンクリートで階段がつけてありましたが
その一段一段が高いこと、40センチくらいあるので上り下りにたいへん^^;
しかも踏み面の幅が狭い、錆びてても手すりがあってよかった?
ここは奥の滝が本来の滝なのでしょうが
右側からも水が大量に流れ出て激しい滝になっていました(笑)
そして写真の中央、滝の上に石橋が架かっているのですが
ま?ったくわかりませんねえ^^;
水量が多くて川の中央部には行けず
川に下りたら滝と石橋のコラボが見られると思っていたのに、ちょっと残念!
道路から川を見下ろしてみました
右上が石橋ですが、これが限界
どこからも石橋の形が見える場所はありませんでした
ことごとく残念な結果でした^^;
産山地区を南下したところで本日は終了です
この日は産山村を”うろんころん”してマニアックなところを巡ってきたので
明日からもおつき合いをどーぞヨロシクです^^v
のんびりした風景の中に「乙宮神社」はありました

広い道もありましたが、参道はたぶんこっちだろうと
名前の掲げられていない鳥居をくぐると大きな杉が出迎えてくれました

左下に田植えが終わったばかりの水田を見下ろし
ゲコゲコ鳴く蛙たちの合唱を聞きながら歩くのも、なんかおもしろい^^

やはりこちらが表参道でした
しっかり手すりもついていましたよ

拝殿は新しいようですね

この乙宮神社は阿蘇神社の摂社で勧請年代は不詳
産山村では、阿蘇大神御嫡孫、御生誕の地は乙宮であり
「産山」という地名の起こりであると言い伝えられているそうです
実は、ここに寄ってみようと思ったのは「榧(かや)」の木が見たかったからなのです
本殿の素晴らしい彫刻をもチラ見だけで通り過ぎ
バチ当たりな熟年夫婦は、その村指定天然記念物である榧を探しました
が、270年の凛とした美しい姿をどこにも発見できず・・
あるのはちょっと目立つイチョウの木と御神木の夫婦スギだけ^^;

帰ってからよくよく調べてみると
参道を少し離れて森の中に入らなければならなかったらしい
全体がこんもりした森になっているので、参道に案内が欲しかったな
ちょっと後ろ髪を引かれながら、再び村道を南下
お?っと、小さい看板みっけー!縦が30センチくらいのものです
ちと、汚れてて見苦しいな^^;
拭いてもきれいにはなりませんでした

「川久保橋」です
「産山川に架かる石橋としては、最上流に位置する。
現存する5石橋の中では、最も新しい昭和10年(1935年)の完成。
形も他の4橋と違い、流線型の見事なアーチ橋をなす。
時代が新しいだけに、幅員も最初からあったらしく
拡幅改修時のコンクリート張り出しは他橋に比べて少ない。
野田寅蔵最後の作といわれている。全長20m、幅員4m」
と書かれています
もともとは明治20年(1887年)に架けられていたようですが
昭和10年に修復されたということらしいです
よく見ると、この看板の横にはニョロの出そうな細?い道がありました
らぼっちはためらいましたが、とっちんはすたすたと歩いて行ってしまいました
下りてみるとすぐに冷たい水の流れる川原に着きました

橋のほうに振り返ると
赤っぽいきれいな造りの橋がモミジの葉の間から見えました

何事もなかったように、またしても南下
そしてまたまた看板発見!!
「小園の石橋と滝」

「小園橋は、大正11年(1922)築造というから今年で82年。
やはり野田寅蔵の作とされている。
橋の幅員は今でこそ4.5mあるが、実際下から望むと石橋部分はその半分しかない。
滝から見上げるコントラストは往時の姿そのまま。
石橋の長さ10.2m、幅員4.5m、滝の落差5.8m・幅12m」
と書いてあります
ほうほう、石橋と滝が見られるんだ
と再び川に下りてみます
こちらはちゃんとコンクリートで階段がつけてありましたが
その一段一段が高いこと、40センチくらいあるので上り下りにたいへん^^;
しかも踏み面の幅が狭い、錆びてても手すりがあってよかった?

ここは奥の滝が本来の滝なのでしょうが
右側からも水が大量に流れ出て激しい滝になっていました(笑)
そして写真の中央、滝の上に石橋が架かっているのですが
ま?ったくわかりませんねえ^^;
水量が多くて川の中央部には行けず
川に下りたら滝と石橋のコラボが見られると思っていたのに、ちょっと残念!
道路から川を見下ろしてみました

右上が石橋ですが、これが限界
どこからも石橋の形が見える場所はありませんでした
ことごとく残念な結果でした^^;
産山地区を南下したところで本日は終了です
この日は産山村を”うろんころん”してマニアックなところを巡ってきたので
明日からもおつき合いをどーぞヨロシクです^^v

扇田を見たら、こちらを見ない手はありません^^
扇田の脇を上がってきた道を更に500mくらい奥に入ると
20?30台位は停められそうな整備された広場に出ます
「山吹水源」の駐車場です
とっちんが、ここのトイレを利用したのですが
掃除も行き届いた綺麗な水洗トイレで
トイレットペーパー もまるまるっと備え付けられていたそうです
気持ちよく使えるトイレっていいですよね^^
えーっと、まずは水汲み場を見てみましょうか
手のじ行くバイのお二人が行かれた時は、まだこの水汲み場もなかったようなので
最近出来たのでしょう
うーん、冷たくて美味しい♪
急遽、ペットボトル10本分くらいをこちらで汲むことにしました
さて、「山吹水源」までは看板によってそれぞれ異なるのですが
約560m?800mくらい、更に奥へ入った所のようです^^
どうも、2年前と比べるとずいぶん道路も整備されて歩きやすくなったみたいです
水源に行き着くまでの途中の風景に二人とも既に感激!
水源から流れ出るせせらぎはひたすら透明で
その中に緑の水草や石についた苔が神秘的な表情を造り出しています

藤の木がぐるっと360度巻いてたり、まさしく自然のアスレチックだ♪
そうそう、もののけ姫のシシ神の森そのもの
こだまが、ほれ!どこそこに^^
ということは、山吹水源はシシ神の池かぁ・・・?
期待が高まります^^
10分程歩くと水が流れ落ちる音が聞こえてきました
これが、「山吹水源」です
山吹水源は、産山川の最源流にあり、湧水量は毎分30?で
量、水質ともに池山水源にもひけをとりません
昭和60年には、熊本名水百選にも選ばれています
見たところ、あまり大きな池ではありません
原生林に囲まれ、大きなモミジが池を覆うようにせり出しています
すべての石や木が苔に覆われています
そこに水があることを忘れてしまうかのように底まで透き通っています
小さな魚達が泳いでいることで水の中と気付かせてくれます
ただ、どこからそんなに大量に湧き出しているのか
結局よくわかりませんでした
アメンボが作り出す輪っかしか見えません^^
さて、池をぐるっと巡ってみましょう
池の中には祠があります
すると、どうでしょう
反対側から見るとこれまた素晴らしい眺めが待っていました
どうですか、この水面に映るシンメトリーの世界♪
まさしく、シシ神の池だ!
一番大きな、ハサコの木の脇を通るときは、ちと御用心^^
この水源地から用水路が直接引かれています
これが、扇田に向かう用水路ですね
扇田は景観だけではなく、最高の水で作られているんです^^
ここは本当に素晴らしい所です
なんだか心が洗われるというか、落ち着くんです
これもある意味、パワースポットではないでしょうか
文句なしに「人に教えたくない地域スポット」の第7号に決定です
そして、秋の色づく頃に、再訪が決定とあいなりました^^

扇田の脇を上がってきた道を更に500mくらい奥に入ると
20?30台位は停められそうな整備された広場に出ます
「山吹水源」の駐車場です

とっちんが、ここのトイレを利用したのですが
掃除も行き届いた綺麗な水洗トイレで
トイレットペーパー もまるまるっと備え付けられていたそうです
気持ちよく使えるトイレっていいですよね^^
えーっと、まずは水汲み場を見てみましょうか
手のじ行くバイのお二人が行かれた時は、まだこの水汲み場もなかったようなので
最近出来たのでしょう


うーん、冷たくて美味しい♪
急遽、ペットボトル10本分くらいをこちらで汲むことにしました
さて、「山吹水源」までは看板によってそれぞれ異なるのですが
約560m?800mくらい、更に奥へ入った所のようです^^

どうも、2年前と比べるとずいぶん道路も整備されて歩きやすくなったみたいです
水源に行き着くまでの途中の風景に二人とも既に感激!


水源から流れ出るせせらぎはひたすら透明で
その中に緑の水草や石についた苔が神秘的な表情を造り出しています

藤の木がぐるっと360度巻いてたり、まさしく自然のアスレチックだ♪

そうそう、もののけ姫のシシ神の森そのもの
こだまが、ほれ!どこそこに^^
ということは、山吹水源はシシ神の池かぁ・・・?
期待が高まります^^
10分程歩くと水が流れ落ちる音が聞こえてきました
これが、「山吹水源」です

山吹水源は、産山川の最源流にあり、湧水量は毎分30?で
量、水質ともに池山水源にもひけをとりません
昭和60年には、熊本名水百選にも選ばれています
見たところ、あまり大きな池ではありません
原生林に囲まれ、大きなモミジが池を覆うようにせり出しています
すべての石や木が苔に覆われています

そこに水があることを忘れてしまうかのように底まで透き通っています
小さな魚達が泳いでいることで水の中と気付かせてくれます
ただ、どこからそんなに大量に湧き出しているのか
結局よくわかりませんでした
アメンボが作り出す輪っかしか見えません^^

さて、池をぐるっと巡ってみましょう
池の中には祠があります

すると、どうでしょう
反対側から見るとこれまた素晴らしい眺めが待っていました
どうですか、この水面に映るシンメトリーの世界♪


まさしく、シシ神の池だ!

一番大きな、ハサコの木の脇を通るときは、ちと御用心^^

この水源地から用水路が直接引かれています

これが、扇田に向かう用水路ですね
扇田は景観だけではなく、最高の水で作られているんです^^

ここは本当に素晴らしい所です
なんだか心が洗われるというか、落ち着くんです
これもある意味、パワースポットではないでしょうか
文句なしに「人に教えたくない地域スポット」の第7号に決定です
そして、秋の色づく頃に、再訪が決定とあいなりました^^

先週、山鹿の番所の棚田に振られた熟年は、今日水汲みがてら阿蘇に出かけてきました
途中、前を走っていたトラックに笑えたので、パシャ!
この辺りの親父ギャグを、どんなもんだいと、堂々と走っているアナタは偉い!
どんよりした天気でしたが、ハッピーな気分にさせてもらいました^^
途中、阿蘇のカルデラを見下ろすと、霞のなかに
田植えが終わった水田が青空と言いたい所ですが
ちょっと残念な曇り空を映し出しています
さて、向かったのは、数日前の熊日新聞に、紹介されていました産山村の「扇田棚田」です
「全国棚田百選・うまい米作り百選」に選ばれています
扇田は、山あいの扇状にひろがる地形を活かして等高線状に作られた水田です
水田の水は、1300m上流の「山吹水源」からの清流を直接引いています
朝早く出るつもりが出発が8時半過ぎとなったので、到着したのが10時頃!
既にカメラおじさん達が多数いるのかなと思いましたが
扇田を見下ろす丘の上には意外にも誰もいません
ゆっくりと丘の上から撮影することができましたよ^^
ただ、御夫婦が水田に肥料をまく作業を行っていました
それでは、皆さんもほっとする景色をどうぞ♪
振り向くと、久住連山が見えます
この丘は1時間はぼーっとしていられそう^^
本当にぼーっとしていた訳ではありませんが
1時間後くらいして、田んぼ脇の道を下っていると
一番上の扇田で作業されていたご夫婦が、下側の水田で作業されていました
車で真横を通り過ぎる際に
いいものを見させていただきありがとうございました
という意味をこめて、二人でぺこりと挨拶すると
ご主人から、飛びきり優しそうな笑顔が返ってきました
観光客なんて面倒だと考える方ではなく
むしろ、このような山奥で条件としては決してよくないであろう棚田を
しっかり守っているという誇りを感じました
よくぞ、自慢の水田を見て下さいました
という返答が、その笑顔のなかに満ちていました^^
水田の横では、しゃもじを持つ田の神さぁが^^
今年も豊作を見届けてくれることでしょう
さて、この後は、もちろんこちらに行ってきました
それは、明日のお楽しみ♪
途中、前を走っていたトラックに笑えたので、パシャ!


この辺りの親父ギャグを、どんなもんだいと、堂々と走っているアナタは偉い!
どんよりした天気でしたが、ハッピーな気分にさせてもらいました^^
途中、阿蘇のカルデラを見下ろすと、霞のなかに
田植えが終わった水田が青空と言いたい所ですが
ちょっと残念な曇り空を映し出しています

さて、向かったのは、数日前の熊日新聞に、紹介されていました産山村の「扇田棚田」です
「全国棚田百選・うまい米作り百選」に選ばれています


扇田は、山あいの扇状にひろがる地形を活かして等高線状に作られた水田です
水田の水は、1300m上流の「山吹水源」からの清流を直接引いています
朝早く出るつもりが出発が8時半過ぎとなったので、到着したのが10時頃!
既にカメラおじさん達が多数いるのかなと思いましたが
扇田を見下ろす丘の上には意外にも誰もいません
ゆっくりと丘の上から撮影することができましたよ^^
ただ、御夫婦が水田に肥料をまく作業を行っていました
それでは、皆さんもほっとする景色をどうぞ♪


振り向くと、久住連山が見えます
この丘は1時間はぼーっとしていられそう^^

本当にぼーっとしていた訳ではありませんが
1時間後くらいして、田んぼ脇の道を下っていると
一番上の扇田で作業されていたご夫婦が、下側の水田で作業されていました
車で真横を通り過ぎる際に
いいものを見させていただきありがとうございました
という意味をこめて、二人でぺこりと挨拶すると
ご主人から、飛びきり優しそうな笑顔が返ってきました
観光客なんて面倒だと考える方ではなく
むしろ、このような山奥で条件としては決してよくないであろう棚田を
しっかり守っているという誇りを感じました
よくぞ、自慢の水田を見て下さいました
という返答が、その笑顔のなかに満ちていました^^

水田の横では、しゃもじを持つ田の神さぁが^^
今年も豊作を見届けてくれることでしょう
さて、この後は、もちろんこちらに行ってきました
それは、明日のお楽しみ♪
<扇田棚田>
[アクセス]地図はコチラ
久しぶりの八代ランチネタです
とっちんが、TVで「八代ホワイトパレス」の真っ黒い麺を紹介していたよ
との中途半端な情報を頼りに、早速仕事の合間に覗いてきました
「八代ホワイトパレス」といえば、メインは結婚式場ですから
普通ならば財布の中身が寂しい親父族は絶対に足を向けないところです
おそるおそる入場するとレストラン「グルメラータ」は入ってすぐ右側にありました
紹介していた真っ黒い麺とは「黒ごま担々麺」でした
メニューはこちらですが、ベーシックランチはびっくりの800円!!
とーっても、リーズナブルなお値段なんです
洋食と中華がA、Bの2コースあって週替わりとなっています
らぼっちは、麺コースの黒ごま担々麺を注文すると
「セットはどうされますか」と聞かれたので「ヘッ?」
内容を聞いて、即セットにしました
だって、+200円で
サラダバー、ご飯orお粥、デザート、ドリンクが付いてくるんですから^^
早速、サラダでもぱくつきながら待つことに
サラダバーです
種類は多くありませんが、十分でしょ♪
さて、待ってました、「黒ゴマ担々麺」
スープは予想以上に見た目真っ黒です^^
擂りつぶした黒ごまがこれでもかと入っているのがよくわかります
でも担々麺ですから、赤いトンガラシは見あたらないけど相当なピリ辛!
麺はよくわからないけれど手打ちではないかなぁ
プリプリ感が少々足りない分、そのように感じました
そして、お粥の登場!
そして、デザートがこれ!!
ねっ、すごいでしょ
3品も盛られているんですよ
特に手作りの杏仁豆腐、美味しかったです♪
そして、アイスコーヒーとなったわけですが
超?満足でした♪
隣の席では、福祉施設の職員さん3人がおばあちゃん達6人とランチを頂いてました
そう、地元の方々が気楽に利用できることを証明してくれています^^
夏は、よくエアコンも効いてそうだから、リピート間違いなしやね
良い店、見つけたな?^^v
肥後味趣乱 ☆4つ半
とっちんが、TVで「八代ホワイトパレス」の真っ黒い麺を紹介していたよ
との中途半端な情報を頼りに、早速仕事の合間に覗いてきました
「八代ホワイトパレス」といえば、メインは結婚式場ですから
普通ならば財布の中身が寂しい親父族は絶対に足を向けないところです

おそるおそる入場するとレストラン「グルメラータ」は入ってすぐ右側にありました
紹介していた真っ黒い麺とは「黒ごま担々麺」でした



メニューはこちらですが、ベーシックランチはびっくりの800円!!
とーっても、リーズナブルなお値段なんです
洋食と中華がA、Bの2コースあって週替わりとなっています



らぼっちは、麺コースの黒ごま担々麺を注文すると
「セットはどうされますか」と聞かれたので「ヘッ?」
内容を聞いて、即セットにしました
だって、+200円で
サラダバー、ご飯orお粥、デザート、ドリンクが付いてくるんですから^^
早速、サラダでもぱくつきながら待つことに
サラダバーです
種類は多くありませんが、十分でしょ♪

さて、待ってました、「黒ゴマ担々麺」

スープは予想以上に見た目真っ黒です^^
擂りつぶした黒ごまがこれでもかと入っているのがよくわかります

でも担々麺ですから、赤いトンガラシは見あたらないけど相当なピリ辛!
麺はよくわからないけれど手打ちではないかなぁ
プリプリ感が少々足りない分、そのように感じました
そして、お粥の登場!

そして、デザートがこれ!!

ねっ、すごいでしょ
3品も盛られているんですよ
特に手作りの杏仁豆腐、美味しかったです♪
そして、アイスコーヒーとなったわけですが
超?満足でした♪

隣の席では、福祉施設の職員さん3人がおばあちゃん達6人とランチを頂いてました
そう、地元の方々が気楽に利用できることを証明してくれています^^
夏は、よくエアコンも効いてそうだから、リピート間違いなしやね
良い店、見つけたな?^^v
肥後味趣乱 ☆4つ半
<グルメラータ(八代ホワイトパレス内)>
[住所]熊本県八代市松江町290-1
[TEL]0965-35-0005
[営業時間]11:00?21:00
[アクセス]地図はコチラ
妙見のクスをみて満足した後、さあ帰ろうと県道139号線を南下していると
こんなものをを見つけてしまったのです
「寄って寄って!」と誘っているようでした
「んん?、帰ろうと思ってたのに・・・^^;」
いやいや、見つけたら寄るでしょ
すぐさま車を駐車場に乗り入れました
案内に沿ってちょっと歩くと、わずかにこんもりとした林が
あ、あれか?
説明板がなかったら、通り過ぎてしまっていましたよ
なになに?
ここは井戸、土塁の跡、「西郷さんの墓」と呼ばれる五輪塔が残っているだけらしい
遺構は少ないみたいです
へ?、でもこんな所に西郷隆盛ゆかりの地があったんだ!
この「増永城址」とは・・もちろん調べましたよ^^
「打越城」「馬渡城」「亀尾城」「台(うてな)城」「神尾城」「正光寺城」と並び
菊池一族が治めたという菊池十八外城のうちのひとつだそうです
この町にその七つの外城跡があったので七城となったらしい
ぎゃーー、そうだったんだ!
以前、亀尾城址には2度ほど行きましたが、このことには気付きませんでした^^;
林を抜けると広いところに出たんです
説明にある「若宮神社」という神社の境内でした
その境内には西郷隆盛に関するものがありましたよ
まず、「西郷南州先生祖先発祥の地」という説明板!
この増永城を開いた菊池初代則隆の子
西郷政隆の末裔の26代昌隆が鹿児島に赴き
明治維新の英雄32代の「西郷隆盛」を生んだと書いてありました
そして、その石碑、徳富蘇峰が書いたものだとか
ここでは一族が英雄だったということでしょう
地名にも残っているので、公民館も堂々とした看板が掛かっていました
この砂田若宮神社は西郷政隆の勧奨請ともいわれ、外城の中でも古いということです
小さいけれど、歴史を感じさせるもので、とても興味深い社でした
そして、隣の民家の庭には初めて見る真っ赤な花が咲き誇っていました
「ブラシの木」というそうですね、そのまんまじゃん^^
別名は「花槇(はなまき)」オーストラリア原産でふともも科に属するとか
そうか、ユーカリと一緒だ
ユーカリの花を見たことないもんで比べようがないけど^^;
それにしても、こんな平地に城を構えて、敵を迎え撃つことができたのか
どうしても不思議に思う熟年二人でした
こんなものをを見つけてしまったのです

「寄って寄って!」と誘っているようでした
「んん?、帰ろうと思ってたのに・・・^^;」
いやいや、見つけたら寄るでしょ
すぐさま車を駐車場に乗り入れました
案内に沿ってちょっと歩くと、わずかにこんもりとした林が


あ、あれか?

説明板がなかったら、通り過ぎてしまっていましたよ
なになに?

ここは井戸、土塁の跡、「西郷さんの墓」と呼ばれる五輪塔が残っているだけらしい
遺構は少ないみたいです
へ?、でもこんな所に西郷隆盛ゆかりの地があったんだ!
この「増永城址」とは・・もちろん調べましたよ^^
「打越城」「馬渡城」「亀尾城」「台(うてな)城」「神尾城」「正光寺城」と並び
菊池一族が治めたという菊池十八外城のうちのひとつだそうです
この町にその七つの外城跡があったので七城となったらしい
ぎゃーー、そうだったんだ!
以前、亀尾城址には2度ほど行きましたが、このことには気付きませんでした^^;
林を抜けると広いところに出たんです
説明にある「若宮神社」という神社の境内でした

その境内には西郷隆盛に関するものがありましたよ
まず、「西郷南州先生祖先発祥の地」という説明板!
この増永城を開いた菊池初代則隆の子
西郷政隆の末裔の26代昌隆が鹿児島に赴き
明治維新の英雄32代の「西郷隆盛」を生んだと書いてありました

そして、その石碑、徳富蘇峰が書いたものだとか

ここでは一族が英雄だったということでしょう
地名にも残っているので、公民館も堂々とした看板が掛かっていました

この砂田若宮神社は西郷政隆の勧奨請ともいわれ、外城の中でも古いということです


小さいけれど、歴史を感じさせるもので、とても興味深い社でした
そして、隣の民家の庭には初めて見る真っ赤な花が咲き誇っていました

「ブラシの木」というそうですね、そのまんまじゃん^^
別名は「花槇(はなまき)」オーストラリア原産でふともも科に属するとか
そうか、ユーカリと一緒だ
ユーカリの花を見たことないもんで比べようがないけど^^;
それにしても、こんな平地に城を構えて、敵を迎え撃つことができたのか
どうしても不思議に思う熟年二人でした

夕べ、とっちんの携帯が鳴りました
姪っ子からメールではなく、めずらしく電話でした
何事かと思ったら
バイト先でチャリの鍵を落としたのを気付かずに、かけてしまったとのこと
あー、またかい!!T_T
今日、早速とっちんが姪っ子を連れて現場に行き
鍵のワイヤーをぶち切って持ち帰ることができました
力を入れすぎて手にマメが出来てしまったらしい
ワイヤーをぶち切ったのは2回目なんです
やれやれ、家の鍵や自転車の鍵ではトラブル続きの姪っ子なのです
いつか部屋に入れないようなことが起こるんじゃないだろうかと
心配でたまらん叔母です^^;(因みに姪っ子の部屋は5階です)
さてさて、不動岩を下りての熟年夫婦、県北の巨樹にも会わないと帰れまテン
あ、いえいえ帰れません^^;
国道325号線を菊池方面へ向かい
「水辺プラザかもと」を過ぎて県道37号線を越えたところのせまい道を左へ
ちょっと見づらい看板発見!
危うく通り過ぎてしまうところでした
この道を進んで行くと、これまたカーブのところで突然巨木が現れたのです
クスの下には「上鶴神社(かみづるじんじゃ)」の文字も
神社のお社は存在しませんが、このクス自体がご神体となっているのでしょう
平成3年の台風がなければ枝の広がりが500平方mにも及ぶ大樹だったとは!
昭和15年には国の天然記念物にもなったのに
幹が折れてもいないようなのに外されることってあるんですね?^^;
でも今でも充分立派なんですよ、ホラッ!!
雨乞いをするといいとか
白蛇が住み着いているとか
この御神木のおかげでこの地域に大火がないとか、書いてあります
本当に白蛇がいるのか、気になるところですよね?
確かめようと思いましたが
小さめの穴はあれど、中は真っ暗で何も見えませんでした
まわりを竹林に囲まれてはいましたが
まだまだ勢いを感じるこの妙見のクス
見ているだけでも元気をもらえました
いや?、これで安心して帰れるぞ^^
今日の記事は短かったな?(笑)
姪っ子からメールではなく、めずらしく電話でした
何事かと思ったら
バイト先でチャリの鍵を落としたのを気付かずに、かけてしまったとのこと
あー、またかい!!T_T
今日、早速とっちんが姪っ子を連れて現場に行き
鍵のワイヤーをぶち切って持ち帰ることができました
力を入れすぎて手にマメが出来てしまったらしい
ワイヤーをぶち切ったのは2回目なんです
やれやれ、家の鍵や自転車の鍵ではトラブル続きの姪っ子なのです
いつか部屋に入れないようなことが起こるんじゃないだろうかと
心配でたまらん叔母です^^;(因みに姪っ子の部屋は5階です)
さてさて、不動岩を下りての熟年夫婦、県北の巨樹にも会わないと帰れまテン
あ、いえいえ帰れません^^;
国道325号線を菊池方面へ向かい
「水辺プラザかもと」を過ぎて県道37号線を越えたところのせまい道を左へ
ちょっと見づらい看板発見!

危うく通り過ぎてしまうところでした
この道を進んで行くと、これまたカーブのところで突然巨木が現れたのです
クスの下には「上鶴神社(かみづるじんじゃ)」の文字も

神社のお社は存在しませんが、このクス自体がご神体となっているのでしょう

平成3年の台風がなければ枝の広がりが500平方mにも及ぶ大樹だったとは!

昭和15年には国の天然記念物にもなったのに
幹が折れてもいないようなのに外されることってあるんですね?^^;
でも今でも充分立派なんですよ、ホラッ!!

雨乞いをするといいとか
白蛇が住み着いているとか
この御神木のおかげでこの地域に大火がないとか、書いてあります
本当に白蛇がいるのか、気になるところですよね?
確かめようと思いましたが
小さめの穴はあれど、中は真っ暗で何も見えませんでした

まわりを竹林に囲まれてはいましたが
まだまだ勢いを感じるこの妙見のクス
見ているだけでも元気をもらえました
いや?、これで安心して帰れるぞ^^

今日の記事は短かったな?(笑)
次に向かったのは、「一本松公園」からも眺めることができた「不動岩(ふどうがん)」です
山鹿市周辺の至る所から見ることができるので、前から気にはなっていましたが
近くまで行ける道がありそうということで、即決定!
これがなんと、先週末ドライブのメインイベントになったのでした^^
途中、蒲生池の横を抜けて上がって行きます
途中の山はミカン園になっていますが、この急斜面すごいです
写真では伝わりにくいでしょうが、間違いなく35度くらいあるのではなかろうか
農作業は恐くてキツイでしょうね
途中の道端に看板がありました
さらにちょっと進むと立て札が
もちろん右に曲がり更に進むと見えてきましたよ、三男坊が
前の一番大きな岩から、前不動、中不動
後不動は写真には入りませんでした
5台くらい止められそうな駐車場に到着です
所用時間は蒲生池から5?6分といったくらいでしょうか
意外と近いですよ
誰もいないと思いきや、奥にバイクが一台止まっておりました
駐車場からの景色です、良い眺めですね
(パノラマをクリックしてみて! )
地図を見ながらワイワイ二人で言っていると
バイクで来ていたお兄さん?(明らかに熟年より若い)が帰って来られました
「こんにちは」と挨拶すると
「登るんですか」
「へっ、登れるんですか?」
「中不動に展望所がありますよ、きついですが5分くらいです」とのこと
知らんかったなぁ、これは行かねば^^
と、その前に不動神社の不動明王にお参りしましょう
神社は前不動の真下に鎮座しています
平安時代、山伏たちがこの山中にこもり、不動明王を本尊として祀り修行したそうです
前不動を見上げるとくらくらきますよ
前不動の岩の高さは約80メートル、根回りは約100メートル
奇岩名勝として、熊本二十五景のひとつにも数えられています
岩は、まだ日本列島の形すらできていない5億年以上も前の
古生代(オルドビス紀)の『変はんれい岩』からできているそうです
なんで、そんな岩がこのような場所に、風雨にも負けず残っているのかが不思議です???
中不動の展望所へはこの階段を登るということか
立て札もないので、先ほどの方に聞かなければ登ってないですね、たぶん^^
良く整備された階段ですが、う?ん、きつそう!
5分くらいだからと、言い聞かせ、いざいざ^^

ん、やはり結構きついです
途中、休み休み登ることに
ここがちょうど中間点くらいかな、でももう5分は経過しているよ、きっと!
もうひと踏ん張りすると階段が途切れました、ここまで264段です
ここからは、階段もどきの岩場を登ります
到着!!下からの所要時間は約10分くらいと思っていた方がよさそうです
これが、中不動の頂上です、柵もありませんよ
高ーい!恐?い!狭ーい!風が強ーい!
それよりも、何よりも
360度!超?絶?景♪
(こちらのパノラマは是非ともクリックを!)
これは、素晴らしい穴場ではないでしょうか
前方には先ほど見上げた前不動がニョキっと立っています
高所恐怖症のとっちんは相変わらず腰が引けたこんなお姿^^
らぼっちが端からカメラを構えようものなら、後ろから大声で喚いています
そりゃも?う、うるさいくらい^^;
立っているのが自分じゃなくても怖いらしい
ん?♪、しつこいけれど絶景だ!!
岩をよーく見ると小石が集まっているんですよ
これが5億年前の「変はんれい岩」です
なんで風化して崩れないのかほんとうに不思議だ!
前方の景色にばかり気をとられ、後不動を振り返ることを忘れていました^^;
でも帰りにはきれいな新緑を見る余裕もあったんですよ
ジャーン、ここは人に教えたくない地域スポット第6に決定です !

山鹿市周辺の至る所から見ることができるので、前から気にはなっていましたが
近くまで行ける道がありそうということで、即決定!
これがなんと、先週末ドライブのメインイベントになったのでした^^
途中、蒲生池の横を抜けて上がって行きます

途中の山はミカン園になっていますが、この急斜面すごいです

写真では伝わりにくいでしょうが、間違いなく35度くらいあるのではなかろうか
農作業は恐くてキツイでしょうね
途中の道端に看板がありました

さらにちょっと進むと立て札が

もちろん右に曲がり更に進むと見えてきましたよ、三男坊が
前の一番大きな岩から、前不動、中不動
後不動は写真には入りませんでした

5台くらい止められそうな駐車場に到着です

所用時間は蒲生池から5?6分といったくらいでしょうか
意外と近いですよ
誰もいないと思いきや、奥にバイクが一台止まっておりました
駐車場からの景色です、良い眺めですね
(パノラマをクリックしてみて! )


地図を見ながらワイワイ二人で言っていると
バイクで来ていたお兄さん?(明らかに熟年より若い)が帰って来られました
「こんにちは」と挨拶すると
「登るんですか」
「へっ、登れるんですか?」
「中不動に展望所がありますよ、きついですが5分くらいです」とのこと
知らんかったなぁ、これは行かねば^^
と、その前に不動神社の不動明王にお参りしましょう
神社は前不動の真下に鎮座しています

平安時代、山伏たちがこの山中にこもり、不動明王を本尊として祀り修行したそうです
前不動を見上げるとくらくらきますよ
前不動の岩の高さは約80メートル、根回りは約100メートル
奇岩名勝として、熊本二十五景のひとつにも数えられています
岩は、まだ日本列島の形すらできていない5億年以上も前の
古生代(オルドビス紀)の『変はんれい岩』からできているそうです
なんで、そんな岩がこのような場所に、風雨にも負けず残っているのかが不思議です???
中不動の展望所へはこの階段を登るということか
立て札もないので、先ほどの方に聞かなければ登ってないですね、たぶん^^
良く整備された階段ですが、う?ん、きつそう!
5分くらいだからと、言い聞かせ、いざいざ^^

ん、やはり結構きついです
途中、休み休み登ることに

ここがちょうど中間点くらいかな、でももう5分は経過しているよ、きっと!

もうひと踏ん張りすると階段が途切れました、ここまで264段です
ここからは、階段もどきの岩場を登ります



到着!!下からの所要時間は約10分くらいと思っていた方がよさそうです
これが、中不動の頂上です、柵もありませんよ

高ーい!恐?い!狭ーい!風が強ーい!
それよりも、何よりも
360度!超?絶?景♪
(こちらのパノラマは是非ともクリックを!)

これは、素晴らしい穴場ではないでしょうか
前方には先ほど見上げた前不動がニョキっと立っています

高所恐怖症のとっちんは相変わらず腰が引けたこんなお姿^^

らぼっちが端からカメラを構えようものなら、後ろから大声で喚いています
そりゃも?う、うるさいくらい^^;
立っているのが自分じゃなくても怖いらしい
ん?♪、しつこいけれど絶景だ!!

岩をよーく見ると小石が集まっているんですよ
これが5億年前の「変はんれい岩」です
なんで風化して崩れないのかほんとうに不思議だ!

前方の景色にばかり気をとられ、後不動を振り返ることを忘れていました^^;
でも帰りにはきれいな新緑を見る余裕もあったんですよ

ジャーン、ここは人に教えたくない地域スポット第6に決定です !

昨日の九州での大雨がだんだん東のほうへ移り
西日本の各地に大きな被害を及ぼしてしまいましたね
まだ雨雲は東側に居座っているそうです
梅雨のハシリと言われる時期にこの大雨ですから
今年もゲリラ豪雨が発生するのでしょうかね
充分注意したいものです
あーーーっ、それにしてもサムライジャパン弱すぎ!!
皆がスペースに向かって走れーーーっ(>_<)
えっと昨日の続きですよ?
アイラトビカズラを見てから県道9号線を南下、次の目的地に向かっていると
公園の木々の間から巨大なものが見えたんです
寄る予定はなかったのですが
ちゃんと見てみようと駐車場に車を乗り入れました^^
そこは「一本松公園」というところでした
車を止めた目の前にはこんな葉っぱの木が立っていました
何の木かわかりますか?
初めて見るなと思っていましたが
ずーーっと前に鹿児島の平川動物園で見たことあったんです
その時のユーカリはこんな大きな木じゃなかったもんね
ユーカリが”ふともも科”であることより
その”ふともも科”という名前に興味がわくよな^^;
へぇ?、種から25年経つとこんな大きさになるんですね
この公園の一番目立つモニュメントがこれ、「石のかざぐるま」です
とっちんはかざぐるまそっちのけで散歩中の犬達に寄っていっています
このかざぐるまは、3基で親子を表現しています
中央の親基は高さ5.5メートル、重さ16トン、羽根の直径2.2メートル
左右の子基は高さ3.3メートル、重さ6トン、羽根の直径1.8メートル
この巨大で重い石の羽根がススキの穂が揺れる程度の風で回るのが不思議です
それぞれの風向きに対応するため、3基とも違う方向を向かせてあります
普段は中央と左側の2基が主に回っているようです
右のかざぐるまは台風の来る前とかじゃないと回らないみたい
年に数回3基の羽根が同時に回るのを見ると
ラッキーなことが起きるというジンクスもあるんですよ
この日は当然のこと、真ん中のかざぐるましか回っていませんでした、残念!^^;
この「一本松公園」の案内図です
なんとローラーすべり台、草スキー体験場、テニス広場やキャンプ場、特産品販売所など
充実した公園になっているんですよ
どおりで、どこぞの保育園の遠足で観光バス3台が駐車場に止まっているはずだ
そして公園内には、円墳もあるんです
小町塚古墳
茶臼塚古墳
この説明板にある写真は昭和5年のもの
ここでこの古墳の上に1本の松があったから、この公園の名前がついたのだと納得
写真の松は立派です
その後この松は枯れてしまい、後にまた違う松が植えられていたようですが
それも平成19年に枯れたようです
なんか古墳の上というのが妙にひっかかる・・
今では松は古墳の外側に植えられているって
あ、そういえば松があったなあ
ここはちょっと小高いところにあるので景色はいいですよ
遊具ではやはり90mあるローラーすべり台が人気で歓声が響いていました
さすが400年の伝統を誇る渋うちわの産地ですね
来民(くたみ)うちわが3枚頭上で舞っていました
あ、もちろん動きませんけど^^
特産品販売所では昔ながらの渋うちわが売られていました
京都、丸亀と並ぶ日本三大名産地と書いてありましたよ
公園内には他にも石で出来たものがいくつかありました
室町時代中期の念仏供養塔と花と書かれたモニュメント
この日もかなり賑やかでしたが
ツツジや桜の時期はもっと多くの家族連れが訪れたことでしょう
そしてうちわに因み、新たな地域活性化の風を起こそうと誕生した石のかざぐるま
これはインパクトありますよ
広さも充分、駐車場もあちこちにあり、子供連れにはありがたいですね
”風を待つ”公園としてゆったりと過ごすのにいいんじゃないでしょうか
「梅」かと思って近づいたら、「桃」でした^^
西日本の各地に大きな被害を及ぼしてしまいましたね
まだ雨雲は東側に居座っているそうです
梅雨のハシリと言われる時期にこの大雨ですから
今年もゲリラ豪雨が発生するのでしょうかね
充分注意したいものです
あーーーっ、それにしてもサムライジャパン弱すぎ!!
皆がスペースに向かって走れーーーっ(>_<)
えっと昨日の続きですよ?
アイラトビカズラを見てから県道9号線を南下、次の目的地に向かっていると
公園の木々の間から巨大なものが見えたんです
寄る予定はなかったのですが
ちゃんと見てみようと駐車場に車を乗り入れました^^
そこは「一本松公園」というところでした
車を止めた目の前にはこんな葉っぱの木が立っていました
何の木かわかりますか?

初めて見るなと思っていましたが
ずーーっと前に鹿児島の平川動物園で見たことあったんです
その時のユーカリはこんな大きな木じゃなかったもんね


ユーカリが”ふともも科”であることより
その”ふともも科”という名前に興味がわくよな^^;
へぇ?、種から25年経つとこんな大きさになるんですね
この公園の一番目立つモニュメントがこれ、「石のかざぐるま」です

とっちんはかざぐるまそっちのけで散歩中の犬達に寄っていっています

このかざぐるまは、3基で親子を表現しています
中央の親基は高さ5.5メートル、重さ16トン、羽根の直径2.2メートル
左右の子基は高さ3.3メートル、重さ6トン、羽根の直径1.8メートル
この巨大で重い石の羽根がススキの穂が揺れる程度の風で回るのが不思議です
それぞれの風向きに対応するため、3基とも違う方向を向かせてあります
普段は中央と左側の2基が主に回っているようです
右のかざぐるまは台風の来る前とかじゃないと回らないみたい

年に数回3基の羽根が同時に回るのを見ると
ラッキーなことが起きるというジンクスもあるんですよ
この日は当然のこと、真ん中のかざぐるましか回っていませんでした、残念!^^;
この「一本松公園」の案内図です

なんとローラーすべり台、草スキー体験場、テニス広場やキャンプ場、特産品販売所など
充実した公園になっているんですよ
どおりで、どこぞの保育園の遠足で観光バス3台が駐車場に止まっているはずだ
そして公園内には、円墳もあるんです
小町塚古墳

茶臼塚古墳

この説明板にある写真は昭和5年のもの


ここでこの古墳の上に1本の松があったから、この公園の名前がついたのだと納得
写真の松は立派です
その後この松は枯れてしまい、後にまた違う松が植えられていたようですが
それも平成19年に枯れたようです
なんか古墳の上というのが妙にひっかかる・・
今では松は古墳の外側に植えられているって
あ、そういえば松があったなあ
ここはちょっと小高いところにあるので景色はいいですよ

遊具ではやはり90mあるローラーすべり台が人気で歓声が響いていました

さすが400年の伝統を誇る渋うちわの産地ですね
来民(くたみ)うちわが3枚頭上で舞っていました
あ、もちろん動きませんけど^^
特産品販売所では昔ながらの渋うちわが売られていました
京都、丸亀と並ぶ日本三大名産地と書いてありましたよ

公園内には他にも石で出来たものがいくつかありました
室町時代中期の念仏供養塔と花と書かれたモニュメント


この日もかなり賑やかでしたが
ツツジや桜の時期はもっと多くの家族連れが訪れたことでしょう
そしてうちわに因み、新たな地域活性化の風を起こそうと誕生した石のかざぐるま
これはインパクトありますよ
広さも充分、駐車場もあちこちにあり、子供連れにはありがたいですね
”風を待つ”公園としてゆったりと過ごすのにいいんじゃないでしょうか

「梅」かと思って近づいたら、「桃」でした^^
夕べからの雨は熊本にもかなりの影響を及ぼしましたね
まだ降るのでしょうか
被害など出ませんように・・
雨の一日、ラボもお出かけ出来ないので
毛をちょっとばかりチョキチョキ、シャンプーもしてきれいになりました
「あー、さっぱりした」「ワン!」
さて、今週末は田植え後の「番所の棚田」を見たいね、ということで
七城から山鹿方面へ出かけてみました
ところが向かう途中の田んぼは、まだ代掻きもはじまっていない様子
こりゃ、まだ早かったねということで、早々にあきらめ
途中のコチラへ立ち寄ってみました
相良の「アイラトビカズラ」です
お仲間のブロガーさんの記事で知ってはいましたが見学は初めてです
見上げたところ緑の葉で鬱蒼としていますよ
なになに・・
学 名:ムクナ センペルビーレンス
中国名:常春油麻藤(じょうしゅんゆまとう)
ハハハ、どちらにしても舌を噛みそうな難しい名前だこと
日本ではただ一ヶ所自生する貴重な植物で、樹令は約1000年だそうで
昭和15年には国指定天然記念物に、昭和27年には特別天然記念物に指定されています
4月下旬から5月上旬にかけて暗紫色の房状の花をつけるということは
花にはちょっと遅かりしでしょうかね
ちょっと、登ってみましょう
おーっ、綺麗に立派な棚が組まれています
でも予想どおり、花はほとんど落ちています
その間をたくさんのありんこが行き交っております
それでも奥まで行くと、所々にまだ花房を見ることができました
最盛期は葡萄や藤のようにたくさん垂れ下がってたことでしょう
写真を撮る間にも、ボトッと落ちるのでビックリさせられます^^
これが原木ですね
結構、太い幹から無数のツルが伸びています
でもこの花の尖った所は指先で触ると痛いんですよ
このような形の理由はあるんでしょうけれど、分かりません^^
私達のように時期をはずした方が2組くらい来られていました
花が咲き誇っている時期は多くの観光客が来るのでしょうね
後で、このすぐ上にある相良観音も駐車場までは行ってみましたが
入るのは止めました
参道にお土産屋さんがあったのに、びっくりです^^
でも後で調べたら、750年を超える歴史を持ち
木彫坐象としては国内最大の千手千眼観自在菩薩が拝めるそうです
来年は、アイラトビカズラが満開の頃に再度来てみましょう
その際は、千手千眼観自在菩薩様にも会いに行きましょう^^
まだ降るのでしょうか
被害など出ませんように・・
雨の一日、ラボもお出かけ出来ないので
毛をちょっとばかりチョキチョキ、シャンプーもしてきれいになりました
「あー、さっぱりした」「ワン!」
さて、今週末は田植え後の「番所の棚田」を見たいね、ということで
七城から山鹿方面へ出かけてみました
ところが向かう途中の田んぼは、まだ代掻きもはじまっていない様子
こりゃ、まだ早かったねということで、早々にあきらめ
途中のコチラへ立ち寄ってみました

相良の「アイラトビカズラ」です
お仲間のブロガーさんの記事で知ってはいましたが見学は初めてです
見上げたところ緑の葉で鬱蒼としていますよ


なになに・・
学 名:ムクナ センペルビーレンス
中国名:常春油麻藤(じょうしゅんゆまとう)
ハハハ、どちらにしても舌を噛みそうな難しい名前だこと
日本ではただ一ヶ所自生する貴重な植物で、樹令は約1000年だそうで
昭和15年には国指定天然記念物に、昭和27年には特別天然記念物に指定されています
4月下旬から5月上旬にかけて暗紫色の房状の花をつけるということは
花にはちょっと遅かりしでしょうかね
ちょっと、登ってみましょう
おーっ、綺麗に立派な棚が組まれています

でも予想どおり、花はほとんど落ちています
その間をたくさんのありんこが行き交っております
それでも奥まで行くと、所々にまだ花房を見ることができました
最盛期は葡萄や藤のようにたくさん垂れ下がってたことでしょう
写真を撮る間にも、ボトッと落ちるのでビックリさせられます^^

これが原木ですね
結構、太い幹から無数のツルが伸びています



でもこの花の尖った所は指先で触ると痛いんですよ
このような形の理由はあるんでしょうけれど、分かりません^^

私達のように時期をはずした方が2組くらい来られていました
花が咲き誇っている時期は多くの観光客が来るのでしょうね

後で、このすぐ上にある相良観音も駐車場までは行ってみましたが
入るのは止めました
参道にお土産屋さんがあったのに、びっくりです^^
でも後で調べたら、750年を超える歴史を持ち
木彫坐象としては国内最大の千手千眼観自在菩薩が拝めるそうです
来年は、アイラトビカズラが満開の頃に再度来てみましょう
その際は、千手千眼観自在菩薩様にも会いに行きましょう^^
<相良のアイラトビカズラ>
[所在地]熊本県山鹿市相良下原
[指定]昭和27年3月29日 特別天然記念物
[アクセス]地図はコチラ
口蹄疫、ついに西都市、木城町へ飛んで拡大が止まりません
西都市に避難していたエース級の種牛も発症したとのこと
同時期に発生した韓国と日本の対応の違いをTVでやってましたが
韓国には緊急マニュアルがあって徹底的な消毒措置が執られたそうです
そして一番の違いは、1頭の発生が確認された時点で
地形や畜産農家の密度を分析の上、それを囲む数Km範囲内を全頭処分したこと
そして発症した牛は24時間以内に埋設処分したこと
農家には時価で50%の補償金が即支払われたこと
うーん、なんなんだ
この日本との違いは・・・
今晩からは九州全域に強い雨が降るそうです
浮遊するウィルスをたたき落としてくれるんだろうか
消毒は効果が消えるよな
それよりも、涙雨・・・
気を取り直して
さて先月、山都町からの帰りにとてもいいところに寄ったのに
アップを忘れていました^^;
うっかりです、ウッカリ・・・ンナハハ・・・
目指して行ったんですよ、一応!
でも、通り過ぎてしまいました
目印は国道に建っていたコレだったんですから
でも、車が入れるような道はなし!(農耕車は入れるようです)
当然駐車スペースなどありません
思案した末、脇道に車を突っ込み向かいました
向かった道は日向往還になるようですね
水の音がする方向へ下って行くと、見えてきましたよ?
石畳も残っていて、思わず「うわぁ?、なにこれ??!」
と言ってしまうくらい、この場の雰囲気に飲み込まれてしまったんです
ここだけ異次元の世界に入っているようでした
お地蔵さんも橋のたもとで見守っています
なんと説明板も苔むしていますよ^^
いい味だしてますね?・・・?( 思わず拭きたくなりましたけど)
なになに、この馬門橋は文政10年(1827年)石工茂吉、勘五郎により架橋された?
は?誰?その茂吉つぁんって・・・
で、調べてみました^^
そしたら、備前の石工なんだそうですよ
もっと驚いたことに勘五郎さんとは肥後種山の石工ではなく
備前石工の勘五郎さんだったのですよ
同じ名前かい、まぎらわしい^^;
でも、肥後には北部にも南部にもりっぱな石工集団があったのに
なぜ備前からわざわざ石工を呼び寄せたのでしょうか?
このことは未だにベールに包まれており、謎となっているということです
ふーん、どういうイキサツがあったのでしょうかね
それでは、備前の石工さん達の造った橋はこちらでーす
どうですか?
肥後の石工も唸るくらい威風堂々としたりっぱな橋ですよね
苔がまたすごい^^
よく歴史を感じるとか、このブログでも書いていたりしますが
ここはまさにその歴史を大いに感じることができます
(橋の上はちょっとイマイチですが)
橋から上流を見てみました
水の流れを見ていると嫌なことも洗い流してくれそうです
下流側です
そうです、この横には小さい滝があったんです
水の音はここからのものでした
小さいながらも結構な水量で、迫力も感じられました
説明板の最後にも書いてありますが
壁石の積み方が新旧の二層になっているのが特徴らしいですよ
直線的に積み方が変わっているのがわかりますか?
いつ、このようになったかはわかりませんでした
だから欄干までの高さがあるんですね
この馬門橋のすぐ上には国道218号線が通っているんですよ
でも、交通量は決して少なくはないと思うのですが、全然うるさくない
気にならないのです
自然の音、水の音や落ち葉を踏む時のかさかさという音、鳥のさえずり
そんな音ばかりが聞こえてきていました
熟年ふたり、古の時代にタイムスリップしていたのかもしれません
今時期の新緑は落ち着いた息吹を感じました
この空間は、夏は涼しく、秋には彩、冬は静寂をと
四季折々違った空気を感じることが出来そうです
よし、ここは再訪決定だな^^
ただ、車が安心しておけるところを探さなくてはなりません
橋の反対側をちょっと探してみましたが、見あたりませんでした
どこか近くにないかなあ?
西都市に避難していたエース級の種牛も発症したとのこと
同時期に発生した韓国と日本の対応の違いをTVでやってましたが
韓国には緊急マニュアルがあって徹底的な消毒措置が執られたそうです
そして一番の違いは、1頭の発生が確認された時点で
地形や畜産農家の密度を分析の上、それを囲む数Km範囲内を全頭処分したこと
そして発症した牛は24時間以内に埋設処分したこと
農家には時価で50%の補償金が即支払われたこと
うーん、なんなんだ
この日本との違いは・・・
今晩からは九州全域に強い雨が降るそうです
浮遊するウィルスをたたき落としてくれるんだろうか
消毒は効果が消えるよな
それよりも、涙雨・・・
気を取り直して
さて先月、山都町からの帰りにとてもいいところに寄ったのに
アップを忘れていました^^;
うっかりです、ウッカリ・・・ンナハハ・・・
目指して行ったんですよ、一応!
でも、通り過ぎてしまいました
目印は国道に建っていたコレだったんですから

でも、車が入れるような道はなし!(農耕車は入れるようです)
当然駐車スペースなどありません
思案した末、脇道に車を突っ込み向かいました
向かった道は日向往還になるようですね

水の音がする方向へ下って行くと、見えてきましたよ?

石畳も残っていて、思わず「うわぁ?、なにこれ??!」
と言ってしまうくらい、この場の雰囲気に飲み込まれてしまったんです
ここだけ異次元の世界に入っているようでした
お地蔵さんも橋のたもとで見守っています
なんと説明板も苔むしていますよ^^
いい味だしてますね?・・・?( 思わず拭きたくなりましたけど)

なになに、この馬門橋は文政10年(1827年)石工茂吉、勘五郎により架橋された?
は?誰?その茂吉つぁんって・・・
で、調べてみました^^
そしたら、備前の石工なんだそうですよ
もっと驚いたことに勘五郎さんとは肥後種山の石工ではなく
備前石工の勘五郎さんだったのですよ
同じ名前かい、まぎらわしい^^;
でも、肥後には北部にも南部にもりっぱな石工集団があったのに
なぜ備前からわざわざ石工を呼び寄せたのでしょうか?
このことは未だにベールに包まれており、謎となっているということです
ふーん、どういうイキサツがあったのでしょうかね
それでは、備前の石工さん達の造った橋はこちらでーす

どうですか?
肥後の石工も唸るくらい威風堂々としたりっぱな橋ですよね
苔がまたすごい^^
よく歴史を感じるとか、このブログでも書いていたりしますが
ここはまさにその歴史を大いに感じることができます
(橋の上はちょっとイマイチですが)

橋から上流を見てみました

水の流れを見ていると嫌なことも洗い流してくれそうです
下流側です

そうです、この横には小さい滝があったんです

水の音はここからのものでした
小さいながらも結構な水量で、迫力も感じられました
説明板の最後にも書いてありますが
壁石の積み方が新旧の二層になっているのが特徴らしいですよ
直線的に積み方が変わっているのがわかりますか?

いつ、このようになったかはわかりませんでした
だから欄干までの高さがあるんですね
この馬門橋のすぐ上には国道218号線が通っているんですよ

でも、交通量は決して少なくはないと思うのですが、全然うるさくない
気にならないのです
自然の音、水の音や落ち葉を踏む時のかさかさという音、鳥のさえずり
そんな音ばかりが聞こえてきていました
熟年ふたり、古の時代にタイムスリップしていたのかもしれません
今時期の新緑は落ち着いた息吹を感じました
この空間は、夏は涼しく、秋には彩、冬は静寂をと
四季折々違った空気を感じることが出来そうです

よし、ここは再訪決定だな^^
ただ、車が安心しておけるところを探さなくてはなりません
橋の反対側をちょっと探してみましたが、見あたりませんでした
どこか近くにないかなあ?

<馬門橋(まかどばし)>
[所在地]下益城郡美里町今
[架橋]文政11(1828)年
[石工]茂吉・勘五郎
[長さ]27.00m
[幅] 2.97m
[高さ]9.20m
[指定]美里町指定文化財
[アクセス]地図はコチラ
この日最初に訪れて見つからず、一度は諦めた場所
やっぱりどうしても行ってみたくて、鉄砲小路から再度そこに行ってみました
この近辺で外の仕事をしていた人達は、朝に夕にウロウロしている2人と1匹に
「なんじゃ?こいつら・・」と思っていたに違いない^^;
およその見当をつけていたのですが
国道が工事中だったので車では近づけず、苦労しました
妙な山道を歩いたり、民家で行き止まりだったり、犬に吠えられたり
人に聞こうにも近所の人は見あたらず、無駄足ばかり
最後の最後にやっとたどり着きました
なんのことはない、車両通行止めの場所から100mもしないところに
でーんと看板が掲げられておりました
あはは、マニアックと言われればそれまでですが
「南郷往還跡」の石畳が見てみたかったんですよ^^;
ここの地名から別名「道明の石畳」とも言われているようです
この入り口から5mほどの石畳もその一部です
この先から山の登り口までは舗装されていました、ちょっと残念
南郷往還とは、熊本市新町を起点に保田窪、長嶺、小山町道明から高遊原を通り
俵山を越え、南郷谷へと通じる道路のことです
さらに、阿蘇郡高森町の色見を経て、豊後竹田へ通じていたようです
角にある道標には、「左おふつ、右まんとく」の文字がはっきりと刻まれています
「まんとく」は阿蘇郡西原村小森にあたり、「おふつ」は大津のことです
古いお地蔵さんもおられました
右側に「享保十一年」、左側に「午十二月吉日」の文字が見えます
横のお宅は大きくて立派だなあ
「たのもーーー!」ラボ・・・
ささ、舗装された道を100mぐらい入っていくと、そこは山でした
ありゃ?石畳なんてないじゃん
とりあえず登ってみましょう
なんと、竹山とともに荒れ放題って感じですね
この石畳の石を勝手に取って家に持ち帰ったという話もまんざら嘘じゃないかも^^;
落ち葉に覆われて残念ながら石畳が見えません
後から思えば、ここら辺がベストショットだったみたいです
そのうち石がごろごろ、道の真ん中に竹が生えていたり
やっと探し当てた場所はこんなところじゃないはずとさらに登ります
竹の勢力はすごいです
こんなに大きくなる前に倒しておかなければならなかったですね
さらに登ると、石畳というには程遠い光景がありました
そして、イマイチの気分で石畳が残る約180mを登りきりました
登りきってもっとがっかりしたのです
舗装した道路に出たのです
ここってさっき車で通ったところじゃん!!
そうなんです
この石畳を探して車でうろついていたときに通ったんです^^;
ちょうどここでワゴン車とすれ違ったので、何も気付きませんでした
蚊には刺されるし、なんか疲れたし
これこそほんとの「骨折り損のくたびれもうけ」だったかな
ただの竹山になってしまわないうちに地域の財を手入れして欲しいな
竹山と共に整備されたなら、肥後四街道に負けないロケーションになるのは
間違いなしです^^
元気だったのはコイツだけ?^^
やっぱりどうしても行ってみたくて、鉄砲小路から再度そこに行ってみました
この近辺で外の仕事をしていた人達は、朝に夕にウロウロしている2人と1匹に
「なんじゃ?こいつら・・」と思っていたに違いない^^;
およその見当をつけていたのですが
国道が工事中だったので車では近づけず、苦労しました
妙な山道を歩いたり、民家で行き止まりだったり、犬に吠えられたり
人に聞こうにも近所の人は見あたらず、無駄足ばかり
最後の最後にやっとたどり着きました
なんのことはない、車両通行止めの場所から100mもしないところに
でーんと看板が掲げられておりました

あはは、マニアックと言われればそれまでですが
「南郷往還跡」の石畳が見てみたかったんですよ^^;
ここの地名から別名「道明の石畳」とも言われているようです
この入り口から5mほどの石畳もその一部です
この先から山の登り口までは舗装されていました、ちょっと残念
南郷往還とは、熊本市新町を起点に保田窪、長嶺、小山町道明から高遊原を通り
俵山を越え、南郷谷へと通じる道路のことです
さらに、阿蘇郡高森町の色見を経て、豊後竹田へ通じていたようです
角にある道標には、「左おふつ、右まんとく」の文字がはっきりと刻まれています
「まんとく」は阿蘇郡西原村小森にあたり、「おふつ」は大津のことです

古いお地蔵さんもおられました
右側に「享保十一年」、左側に「午十二月吉日」の文字が見えます

横のお宅は大きくて立派だなあ
「たのもーーー!」ラボ・・・


ささ、舗装された道を100mぐらい入っていくと、そこは山でした

ありゃ?石畳なんてないじゃん
とりあえず登ってみましょう

なんと、竹山とともに荒れ放題って感じですね
この石畳の石を勝手に取って家に持ち帰ったという話もまんざら嘘じゃないかも^^;

落ち葉に覆われて残念ながら石畳が見えません
後から思えば、ここら辺がベストショットだったみたいです
そのうち石がごろごろ、道の真ん中に竹が生えていたり


やっと探し当てた場所はこんなところじゃないはずとさらに登ります

竹の勢力はすごいです
こんなに大きくなる前に倒しておかなければならなかったですね
さらに登ると、石畳というには程遠い光景がありました



そして、イマイチの気分で石畳が残る約180mを登りきりました
登りきってもっとがっかりしたのです
舗装した道路に出たのです
ここってさっき車で通ったところじゃん!!
そうなんです
この石畳を探して車でうろついていたときに通ったんです^^;
ちょうどここでワゴン車とすれ違ったので、何も気付きませんでした

蚊には刺されるし、なんか疲れたし
これこそほんとの「骨折り損のくたびれもうけ」だったかな
ただの竹山になってしまわないうちに地域の財を手入れして欲しいな
竹山と共に整備されたなら、肥後四街道に負けないロケーションになるのは
間違いなしです^^
元気だったのはコイツだけ?^^

<南郷往還跡の石畳>
[アクセス]地図はコチラ
よくよく考えてみたら・・
今までこんなに近い菊陽町をゆっくり歩くことがなかったんです
以前から行ってみたいと思っていた場所があったにもかかわらず^^;
昨年くろさん亭のくろさんが行かれていたところなんです
その場所とは・・・
鉄砲小路とはやはり鉄砲に由来していたんですよね
この鉄砲小路は細川藩の初代当主忠利公の命によって創設された地筒の村です
城から四?五里以内にあって、しかも鬼門に当たるこの地に
非常の場合に備えての軍備の強化と、未開拓地の開墾
そしていちばんの難題であった浪人対策を行うのが目的でした
月に5日城に出仕、他の日は武術錬磨と農耕に従事
事あれば鉄砲組として主君を守るのが任務なのです
これが肥後藩における鉄砲地筒(屯田兵)の始まりとなりました
他に類を見ない大規模な地筒の集落だということです
道路を挟んで北側に住居、南側は作業場となった通りは東西に3.6km続いているそうです
整然と並んだ生け垣は北側住居の方のみと言えど
各家の方々は手入れをするのにたいへんでしょうね
その鉄砲小路のほぼ真ん中にある「蘇古鶴神社(そこづるじんじゃ)」に行ってみました
おーっと、危ないんじゃないかい!
鳥居の石がジグソーパズルのようにはめ込んでありますよ
地震で崩れるんじゃないかと一瞬思ったけど、そんなことはないでしょう^^
参道は意外と長く、静かな空気が流れていました
ここには菊陽町唯一の楼門があります
銅板葺きの二層建築となっています
門内には「奇岩窓神」「豊岩窓神」の異名同体の二神が祀られていました
蘇古鶴神社は寛永12年(1635年)鉄砲小路の創設と同時に守護神として建立されました
当初は堀川の北方の杉山内にありましたが
20年後の明暦元年(1655年)に現在の地に移されました
拝殿です
ガラス越しに覗いてみると古い大きな絵が何枚か掲げられていました
祭神は、阿蘇一の宮・二の宮で菅原道真神を合祀しています
「蘇古鶴(そこづる)」ちょっとおもしろい神社の名前ですよね
由来は、細川忠利公が鷹狩りでこの地に来られたとき
鶴が二羽(そこつ鶴)舞い降りてきたそうで
将来にわたり社号を阿蘇の蘇の字を鶴の上にかぶせて
「蘇古鶴宮」と申し伝えたことによるようです
りっぱな彫りの装飾がある本殿です
蘇古鶴神社では、25年毎に神社の祭事が繰り返されると書いてありました
昨年3月には15回目の375年祭があったようですね
本殿の敷地の一角にあったものです
神社の社殿右手に西南戦争の殉難碑があったので、これもその関係でしょうかね
さて神社を後にして、この鉄砲小路でいちばんお目にかかりたかったもの
そちらに向かいますか^^
「鉄砲小路鳥栖家の木斛(もっこく)」です
あー、電線が邪魔だ^^;
なんだか増殖してる?っていうか幹はどこだかって感じです
何かで見た写真ではこんなに幹のまわりに葉っぱは付いていませんでしたが
払ってないところをみるとこれもこの木の葉っぱなのか?
違うような気がする
そういえば大津町の江藤家にも木斛があったけど
あちらはここまで大きくなかったです
ツバキ科なのに夏に白い花を咲かせるんですね
今度は夏や秋に見に来てみたいと思いました
でも、通りすがりにちらっと見ることにしよう
この角を曲がる車が結構多かったし、なんといっても民家の庭にあるので
迷惑にならないようにしなければ^^;
300年以上の年月をかけてここまで大きくなった木斛
東の端から鉄砲小路の歴史を静かに見続けているようでした
今までこんなに近い菊陽町をゆっくり歩くことがなかったんです
以前から行ってみたいと思っていた場所があったにもかかわらず^^;
昨年くろさん亭のくろさんが行かれていたところなんです
その場所とは・・・


鉄砲小路とはやはり鉄砲に由来していたんですよね
この鉄砲小路は細川藩の初代当主忠利公の命によって創設された地筒の村です
城から四?五里以内にあって、しかも鬼門に当たるこの地に
非常の場合に備えての軍備の強化と、未開拓地の開墾
そしていちばんの難題であった浪人対策を行うのが目的でした
月に5日城に出仕、他の日は武術錬磨と農耕に従事
事あれば鉄砲組として主君を守るのが任務なのです
これが肥後藩における鉄砲地筒(屯田兵)の始まりとなりました
他に類を見ない大規模な地筒の集落だということです


道路を挟んで北側に住居、南側は作業場となった通りは東西に3.6km続いているそうです
整然と並んだ生け垣は北側住居の方のみと言えど
各家の方々は手入れをするのにたいへんでしょうね
その鉄砲小路のほぼ真ん中にある「蘇古鶴神社(そこづるじんじゃ)」に行ってみました

おーっと、危ないんじゃないかい!
鳥居の石がジグソーパズルのようにはめ込んでありますよ
地震で崩れるんじゃないかと一瞬思ったけど、そんなことはないでしょう^^

参道は意外と長く、静かな空気が流れていました
ここには菊陽町唯一の楼門があります


銅板葺きの二層建築となっています
門内には「奇岩窓神」「豊岩窓神」の異名同体の二神が祀られていました


蘇古鶴神社は寛永12年(1635年)鉄砲小路の創設と同時に守護神として建立されました
当初は堀川の北方の杉山内にありましたが
20年後の明暦元年(1655年)に現在の地に移されました
拝殿です

ガラス越しに覗いてみると古い大きな絵が何枚か掲げられていました

祭神は、阿蘇一の宮・二の宮で菅原道真神を合祀しています
「蘇古鶴(そこづる)」ちょっとおもしろい神社の名前ですよね
由来は、細川忠利公が鷹狩りでこの地に来られたとき
鶴が二羽(そこつ鶴)舞い降りてきたそうで
将来にわたり社号を阿蘇の蘇の字を鶴の上にかぶせて
「蘇古鶴宮」と申し伝えたことによるようです
りっぱな彫りの装飾がある本殿です


蘇古鶴神社では、25年毎に神社の祭事が繰り返されると書いてありました
昨年3月には15回目の375年祭があったようですね

本殿の敷地の一角にあったものです
神社の社殿右手に西南戦争の殉難碑があったので、これもその関係でしょうかね
さて神社を後にして、この鉄砲小路でいちばんお目にかかりたかったもの
そちらに向かいますか^^
「鉄砲小路鳥栖家の木斛(もっこく)」です


あー、電線が邪魔だ^^;
なんだか増殖してる?っていうか幹はどこだかって感じです

何かで見た写真ではこんなに幹のまわりに葉っぱは付いていませんでしたが
払ってないところをみるとこれもこの木の葉っぱなのか?
違うような気がする
そういえば大津町の江藤家にも木斛があったけど
あちらはここまで大きくなかったです
ツバキ科なのに夏に白い花を咲かせるんですね
今度は夏や秋に見に来てみたいと思いました
でも、通りすがりにちらっと見ることにしよう
この角を曲がる車が結構多かったし、なんといっても民家の庭にあるので
迷惑にならないようにしなければ^^;
300年以上の年月をかけてここまで大きくなった木斛
東の端から鉄砲小路の歴史を静かに見続けているようでした

<蘇古鶴神社>
[所在地]熊本県菊池郡菊陽町大字原水5091
[アクセス]地図はコチラ
昨日は口蹄疫問題についての記事の転載ありがとうございましたm(_ _)m
・・・やっと政府の方針が出されましたが
今や初動体制がどうだとか、誰が何を言ったかとかの問題じゃないと思います
マスコミの取材方法や報道のあり方にもウンザリします
最近、熟年の食卓ではこの話題ばかりです・・・
今後、農家に対する長期経済的支援や精神的ケア
そして、町の再生に向けて早急に動き出して欲しいと願うばかりです
さて一昨日の続きになります
隣の菊陽町をぶらぶらしているところでした
「鼻ぐり井手」から県道145号線を西に移動
2kmくらい行ったところに「井口眼鏡橋」があります
<井口眼鏡橋>
「鼻ぐり井手」と同じ馬場楠井出に架かっている橋です
架橋年月日や石工は不明なんですね
橋の上には砂利が敷かれていました
ずいぶん古いものだと思って見ていたのですが
説明をよくよく読んでいたら、東側は後に拡幅工事されており
西側じゃないとこの橋の貴重さがわからないとのこと
どれどれ?
あっれ??どこかで見たことがあるなあ・・・
この橋の特徴は、輪石を石楔で継いだ工法であることだそうです
これで石のズレが防げるわけです
琉球式(沖縄)石組みと言われる技法とも何かに書いてありました
大きさの違う石が輪石の外側に二重になっているのがよくわかります
橋のたもとには橋の改修の記念碑がたくさん建っていました
それだけこの地域では大事な橋だったのでしょう
だけど、なんで日中戦争の碑が建ってんの?
あっ、そうだ、思い出した!!
説明にも書いてあるじゃん
御船の「門前川眼鏡橋」にも4月に行ったことあったんです
アップするのを忘れていました^^;
<門前川眼鏡橋>
緑川地域でもっとも古い石橋だそうです
永寿寺の門前を流れていた小川に架けたことからこの名が付いたとか
日向往還になくてはならない橋だったんですね
水面よりも高い位置にあるので、美しいアーチの形が見れました
この橋は、仁平石工一門だった理佐衛門によって築かれたと平成10年に判明したようで
もしかしたら「井口眼鏡橋」も同じ石工だったのかもしれません
橋の上はアスファルトで固められていましたよ
つつじの季節、夕陽に映る石造りアーチ橋とぽっかり浮かぶ月が印象的でした
うーん、残るは植木町の「豊岡橋」だな^^
・・・やっと政府の方針が出されましたが
今や初動体制がどうだとか、誰が何を言ったかとかの問題じゃないと思います
マスコミの取材方法や報道のあり方にもウンザリします
最近、熟年の食卓ではこの話題ばかりです・・・
今後、農家に対する長期経済的支援や精神的ケア
そして、町の再生に向けて早急に動き出して欲しいと願うばかりです
さて一昨日の続きになります
隣の菊陽町をぶらぶらしているところでした
「鼻ぐり井手」から県道145号線を西に移動
2kmくらい行ったところに「井口眼鏡橋」があります
<井口眼鏡橋>
「鼻ぐり井手」と同じ馬場楠井出に架かっている橋です



架橋年月日や石工は不明なんですね
橋の上には砂利が敷かれていました
ずいぶん古いものだと思って見ていたのですが
説明をよくよく読んでいたら、東側は後に拡幅工事されており
西側じゃないとこの橋の貴重さがわからないとのこと
どれどれ?

あっれ??どこかで見たことがあるなあ・・・
この橋の特徴は、輪石を石楔で継いだ工法であることだそうです
これで石のズレが防げるわけです
琉球式(沖縄)石組みと言われる技法とも何かに書いてありました
大きさの違う石が輪石の外側に二重になっているのがよくわかります
橋のたもとには橋の改修の記念碑がたくさん建っていました
それだけこの地域では大事な橋だったのでしょう
だけど、なんで日中戦争の碑が建ってんの?


あっ、そうだ、思い出した!!
説明にも書いてあるじゃん
御船の「門前川眼鏡橋」にも4月に行ったことあったんです
アップするのを忘れていました^^;
<門前川眼鏡橋>


緑川地域でもっとも古い石橋だそうです
永寿寺の門前を流れていた小川に架けたことからこの名が付いたとか
日向往還になくてはならない橋だったんですね
水面よりも高い位置にあるので、美しいアーチの形が見れました

この橋は、仁平石工一門だった理佐衛門によって築かれたと平成10年に判明したようで
もしかしたら「井口眼鏡橋」も同じ石工だったのかもしれません
橋の上はアスファルトで固められていましたよ

つつじの季節、夕陽に映る石造りアーチ橋とぽっかり浮かぶ月が印象的でした

うーん、残るは植木町の「豊岡橋」だな^^
<井口眼鏡橋>
[所在地]熊本県菊池郡菊陽町大字辛川字井口
[架橋年月日] 不明
[石工] 不明
[橋長] 10.75m
[橋幅] 3.0m
[橋高] 2.65m
[指定]菊陽町指定文化財
[アクセス]地図はコチラ
<門前川眼鏡橋>
[所在地]熊本県上益城郡御船町木倉
[架橋年月日] 1808年
[石工]理佐衛門
[橋長] 7.4m
[橋幅] 2.7m
[橋高] 4.3m
[アクセス]地図はコチラ
らぼっちが30代前半の頃、よく川南町へ仕事で出かけていました
仕事柄、地元の農家の方と話す機会も結構ありましたが
怒られ、怒鳴られたことも何度かあります
その頃はなんとか川南町の農業を盛り上げたいと
若さ?で走り回ったものです^^
黒木酒造の「百年の孤独」はよく飲んだなあ
高鍋の海の岩牡蛎も大きくて美味しかったなあ
とろんとろんの辺りで飲んだよね?・・・
そんな川南がこんなにも悲惨な現状だとは知りませんでした
そして口蹄疫がこんなにも強力なウィルスとは・・・
新聞を読んでいるだけでは伝わってきませんでした
とっちんの実家では兄が黒毛和牛を50頭ほど肥育しています
毎日、朝6時から夜9時過ぎまで牛飼いを行います
もちろん、動物ですから土日祝日もありません
一晩も家を空けられないので、兄夫婦は旅行なんてしたことありません
義父が手術の時もすぐに家へ戻っていきました
そんな家族以上に接している牛たちが、もし口蹄疫に冒されたら・・・
考えただけで恐ろしいです
政治家も、行政も、マスコミも
初動措置がまずかったなど
後ろを振り返って、誰の対応が悪かったなんてばかり言うのではなく
これ以上拡大しないために、それぞれが今何をすべきか
被害を受けた畜産農家に緊急で何をすべきか
前向きの議論をもっともっとして欲しいです
らぼっちも言うだけでなく、自分にできることを実行します
横峯さくらさんのようなことは出来ませんけど^^
え?っと、おまえさんに蹄はないよね
でもご主人様たちにケツを向けるんじゃねえ!!(笑)
仕事柄、地元の農家の方と話す機会も結構ありましたが
怒られ、怒鳴られたことも何度かあります
その頃はなんとか川南町の農業を盛り上げたいと
若さ?で走り回ったものです^^
黒木酒造の「百年の孤独」はよく飲んだなあ
高鍋の海の岩牡蛎も大きくて美味しかったなあ
とろんとろんの辺りで飲んだよね?・・・
そんな川南がこんなにも悲惨な現状だとは知りませんでした
そして口蹄疫がこんなにも強力なウィルスとは・・・
新聞を読んでいるだけでは伝わってきませんでした
とっちんの実家では兄が黒毛和牛を50頭ほど肥育しています
毎日、朝6時から夜9時過ぎまで牛飼いを行います
もちろん、動物ですから土日祝日もありません
一晩も家を空けられないので、兄夫婦は旅行なんてしたことありません
義父が手術の時もすぐに家へ戻っていきました
そんな家族以上に接している牛たちが、もし口蹄疫に冒されたら・・・
考えただけで恐ろしいです
政治家も、行政も、マスコミも
初動措置がまずかったなど
後ろを振り返って、誰の対応が悪かったなんてばかり言うのではなく
これ以上拡大しないために、それぞれが今何をすべきか
被害を受けた畜産農家に緊急で何をすべきか
前向きの議論をもっともっとして欲しいです
らぼっちも言うだけでなく、自分にできることを実行します
横峯さくらさんのようなことは出来ませんけど^^
え?っと、おまえさんに蹄はないよね
でもご主人様たちにケツを向けるんじゃねえ!!(笑)

いいなぁ、って方はポチッしてね^^
いいよぉ、って方はポチッしてね^^
ブログを流していると、口蹄疫の窮状を訴える以下のような記事に遭遇しました
新聞では書かれてない、ニュースでも聞けない
凄まじいことが隣県の宮崎県で発生しています
読んでいて涙が止まりませんでした
熟年夫婦ができることはこんなことしかありません
もしよろしかったら皆様のブログでも転載してください
【2010年05月12日】口蹄疫の問題について
今、宮崎県内では口蹄疫の問題で衝撃が走っています。宮崎県内にいても詳しく
知らない、わからない口蹄疫の現状。普天間問題やギリシャの問題、、殺人事件
等々、ニュースがあふれている中宮崎県内のニュースでもあまり長い時間を
割かれないのはなぜなのでしょうか?なぜ全国ニュースでは報道されないので
しょう? 県内外の方々に伝えて口蹄疫問題を理解していただけたら・・・
心から 思います。
この 現状を知ってもらうこと世論で政府を動かすしかもう手が無いんです 昨日日記
に書いた仲間の輪による消毒剤の話も、政府の圧力がかかり、 “各県まず自分所
の防疫の徹底をせよ。宮崎は農相みずから出向き全力で対応している” との電話
があったみたいです。 消毒剤が圧倒的に足りません。 消毒剤の事は昨日書きまし
たが、 人手も圧倒的に足りません。 政府は“現場スタッフを国としても確保してい
る”と発表してますが、一昨日までの現場スタッフ350人のほとんどは県のスタッフ。
九州農政局から3人の獣医師と20人のスタッフ、追加で30人の自衛隊。
追加で来た自衛隊は4日出たら2日休み実質2/3の労力。
昨日から宮崎による確保と九州各県の応援により倍の700人体勢に。
それでも殺処分対称の1割しか処分出来てません。
県も、保健所も、獣医師も、JAも、市町村も、休みなしで必死になって頑張って
ます。 保健所の友人はGWどころか、発生からずっと休み無し、6?21時の重労働。
爪は割れ、消毒剤で手の皮膚が爛れ…、 それでも必死になって戦ってます。
マイミクさんの旦那さんも新婚、子供が産まれて初めてのGWも休み無しで
頑張ってくれてます。 ホントに感謝しています。
それでも全然処分が追い付かないんです。
今、処分対称の10万頭のうち、20日間で処分が終わったのは1万頭にも届きま
せん。 今1日の処分頭数が千頭。毎日発症する頭数の方が圧倒的に多いんです。
感染した牛は毎日10億個、豚は5兆個のウイルスを撒き散らします。
感染拡大が止まりません。 4月末に発症した友人の農場では、今のペースでは
5月内に処分出来るかどうかと言った所です。 全て殺されてしまう。
それでも弱れば排出するウイルスが増える。だから、殺されるのがわかってても、
毎日餌をやり、ビタミンをやり、あらゆる手を尽くして少しでも牛を健康に保とうと
してます。 でも、農場全ての牛に広がり、弱い子牛から次々に弱り、死んでいき
ます。 死んでも処理業者も出入りできないため、死体の上に大量の石灰を
乗せても、腐敗し異臭を放ち始め、 それでも親牛は自分の子を一生懸命舐め、
石灰を落とそうとします。 消毒剤の不足から、本来は牛に使わないような強い薬を
大量に毎日浴びせられ、牛は毛が抜けぼろぼろになっていきます。
そんな中で、自分の家族同然の牛を殺す事も出来ず、飼い続けなければならない
んです。 また、保健所や獣医師が殺処分現場に集中せざるを得ず、発症が
疑われる農場の検査も出来ず、 テレビや報道では50件80000頭となっていますが、
把握してるだけで発症の疑いがあり検査待ちの所があと40農場あります。
とにかく人手が足りないんです。 もう殺処分が追い付かないんです。
首相が激甚災害に認定し、自衛隊を出さない限り、拡大は収まりません。
「その必要があるかどうかを関係閣僚と話し合い、必要とあれば検討する」とか
言ってる場合じゃないんです!! ワクチンと言う手も有りますが、現行の法律では使え
ず、 しかも大臣は「参院選後の国会で立案立法を…」 とか言ってますが、 その頃に
は国内の牛・豚・山羊・羊・鹿・猪…等の偶蹄類はいなくなってるでしょう。
皆さんにお願いです。
とにかく、今、宮崎で大変な事が起こってると言うことを、多くの人に伝えて下さい。
もう世論で政府を動かすしか方法がないんです。 資材機材も、人手も、予算も…
もう国に頼るしかないんです。
よろしくお願いします。
おおきなうねりとなって国会の場に届くことをねがっています どうか宮崎の酪農を
助けて下さい。心の底からお願いします。
もしも宮崎だけではなく、自分の住む街に口蹄疫の病気が広がったらどうし
ますか?
人事では済まされない、今必死に食い止めようとしている宮崎の農場の方達の
努力を是非に政府に働きかけるのを手伝って頂きたい。
ブログの力は弱いかも知れないが何もしないよりマシ
何卒宜しくお願い致します。
以上、日南娘(ひなむすめ)さんの記事からの転載です
ご訪問の皆様、コメントは不要なので、上記の転載をお願いいたします
新聞では書かれてない、ニュースでも聞けない
凄まじいことが隣県の宮崎県で発生しています
読んでいて涙が止まりませんでした
熟年夫婦ができることはこんなことしかありません
もしよろしかったら皆様のブログでも転載してください
【2010年05月12日】口蹄疫の問題について
今、宮崎県内では口蹄疫の問題で衝撃が走っています。宮崎県内にいても詳しく
知らない、わからない口蹄疫の現状。普天間問題やギリシャの問題、、殺人事件
等々、ニュースがあふれている中宮崎県内のニュースでもあまり長い時間を
割かれないのはなぜなのでしょうか?なぜ全国ニュースでは報道されないので
しょう? 県内外の方々に伝えて口蹄疫問題を理解していただけたら・・・
心から 思います。
この 現状を知ってもらうこと世論で政府を動かすしかもう手が無いんです 昨日日記
に書いた仲間の輪による消毒剤の話も、政府の圧力がかかり、 “各県まず自分所
の防疫の徹底をせよ。宮崎は農相みずから出向き全力で対応している” との電話
があったみたいです。 消毒剤が圧倒的に足りません。 消毒剤の事は昨日書きまし
たが、 人手も圧倒的に足りません。 政府は“現場スタッフを国としても確保してい
る”と発表してますが、一昨日までの現場スタッフ350人のほとんどは県のスタッフ。
九州農政局から3人の獣医師と20人のスタッフ、追加で30人の自衛隊。
追加で来た自衛隊は4日出たら2日休み実質2/3の労力。
昨日から宮崎による確保と九州各県の応援により倍の700人体勢に。
それでも殺処分対称の1割しか処分出来てません。
県も、保健所も、獣医師も、JAも、市町村も、休みなしで必死になって頑張って
ます。 保健所の友人はGWどころか、発生からずっと休み無し、6?21時の重労働。
爪は割れ、消毒剤で手の皮膚が爛れ…、 それでも必死になって戦ってます。
マイミクさんの旦那さんも新婚、子供が産まれて初めてのGWも休み無しで
頑張ってくれてます。 ホントに感謝しています。
それでも全然処分が追い付かないんです。
今、処分対称の10万頭のうち、20日間で処分が終わったのは1万頭にも届きま
せん。 今1日の処分頭数が千頭。毎日発症する頭数の方が圧倒的に多いんです。
感染した牛は毎日10億個、豚は5兆個のウイルスを撒き散らします。
感染拡大が止まりません。 4月末に発症した友人の農場では、今のペースでは
5月内に処分出来るかどうかと言った所です。 全て殺されてしまう。
それでも弱れば排出するウイルスが増える。だから、殺されるのがわかってても、
毎日餌をやり、ビタミンをやり、あらゆる手を尽くして少しでも牛を健康に保とうと
してます。 でも、農場全ての牛に広がり、弱い子牛から次々に弱り、死んでいき
ます。 死んでも処理業者も出入りできないため、死体の上に大量の石灰を
乗せても、腐敗し異臭を放ち始め、 それでも親牛は自分の子を一生懸命舐め、
石灰を落とそうとします。 消毒剤の不足から、本来は牛に使わないような強い薬を
大量に毎日浴びせられ、牛は毛が抜けぼろぼろになっていきます。
そんな中で、自分の家族同然の牛を殺す事も出来ず、飼い続けなければならない
んです。 また、保健所や獣医師が殺処分現場に集中せざるを得ず、発症が
疑われる農場の検査も出来ず、 テレビや報道では50件80000頭となっていますが、
把握してるだけで発症の疑いがあり検査待ちの所があと40農場あります。
とにかく人手が足りないんです。 もう殺処分が追い付かないんです。
首相が激甚災害に認定し、自衛隊を出さない限り、拡大は収まりません。
「その必要があるかどうかを関係閣僚と話し合い、必要とあれば検討する」とか
言ってる場合じゃないんです!! ワクチンと言う手も有りますが、現行の法律では使え
ず、 しかも大臣は「参院選後の国会で立案立法を…」 とか言ってますが、 その頃に
は国内の牛・豚・山羊・羊・鹿・猪…等の偶蹄類はいなくなってるでしょう。
皆さんにお願いです。
とにかく、今、宮崎で大変な事が起こってると言うことを、多くの人に伝えて下さい。
もう世論で政府を動かすしか方法がないんです。 資材機材も、人手も、予算も…
もう国に頼るしかないんです。
よろしくお願いします。
おおきなうねりとなって国会の場に届くことをねがっています どうか宮崎の酪農を
助けて下さい。心の底からお願いします。
もしも宮崎だけではなく、自分の住む街に口蹄疫の病気が広がったらどうし
ますか?
人事では済まされない、今必死に食い止めようとしている宮崎の農場の方達の
努力を是非に政府に働きかけるのを手伝って頂きたい。
ブログの力は弱いかも知れないが何もしないよりマシ
何卒宜しくお願い致します。
以上、日南娘(ひなむすめ)さんの記事からの転載です
ご訪問の皆様、コメントは不要なので、上記の転載をお願いいたします
とうとう今日は、今年初めての真夏日を記録したもようです
本当に暑かったですね?!
全国で一番の暑さだったって?
でしょうね、車の中は地獄のようでしたから^^;
また暑い夏がやってくると思うとちょっと閉口
でもその前にうっとおしい梅雨をやり過ごさないといけないんだった
ま、四季があるから日本の自然が楽しめるのに間違いはないんですがね
さてさて、土曜日、友達の結婚式に出席の次男を送り出し
天気もよかったので近場をちょこっとドライブしました
ところが最初目指していた場所がどこを探しても見あたりません
こんなところをウロウロしてました
で、そうそうに諦めてこちらに向かいました
菊陽町にある「鼻ぐり井手」です
本当に近場なのに話には聞けど、初めて目にするところです
”鼻ぐり”の意味も、ようとはわからずに行ったのですが
その水流穴の形が牛の鼻に通す”鼻ぐり”に似ているからとかで
通称では「鼻ぐり井手」と呼ばれています
本来は「馬場楠井手の鼻ぐり」と言うんですね
公園に模型がありました
最初は何かな?と思ったのですが^^;
水の中はこんなふうになっているんですね
この技法で水力を利用して土砂を次々に下流へ排出させることが出来るんですね
簡単なようで当時としては難しいことではなかったでしょうか
清正公が築いた馬場楠井出とは、白川中流左岸の馬場楠堰から渡鹿堰まで
全長12km の灌漑用開水を言います
当初360mの間に80ヶ所の鼻ぐりが設けられたようですが
後に鼻ぐりの機能を知らない藩役人の手で破壊されたり、土壌化や風化により
残るは24ヶ所になったとか(>_<)
うーん、数えてはいないけどそんなにあったかなあ^^;
鼻ぐり大橋の下はシダや草が生えていなかったので見やすかったですよ
平成9年度から6年かけて遺構の補修などを行ったことがここでわかります
上から見ているとひとつひとつの溜まりのところで
水がぐるぐる渦巻いているのが見てとれます
よく考えてあるものです
おや、清正公がおられましたよ
って、おいっ、ラボかい!
手が出てるし・・・
すっとぼけた顔して清正公に失礼じゃないかい^^;
でも、これってここに必要なのかな
そういう観光地じゃないと思うのですがね
この公園にはこれ以上、鼻ぐり井手を風化させたり崩したりしないように
ある程度長めの展望台が設けられています
公園とは反対側の土手には遊歩道もあるようでした
今はまだ小さい木も生えていました
今後この鼻ぐり井手を後世に残すためにも、まだいろんな努力が必要だと思います
通潤橋といい、鼻ぐり井手といい
肥後には、今でも誇れる水に関する土木事業が数々あります
これは清正公が技術を自らも学んで実践してきた賜ではないでしょうか
400年経っても使える技術
現代社会にそういったものがどれ程あるでしょうか
昔のことから学ぶことの多さに熟年夫婦も
感心したり感動したり、そして頭がついていかなかったりするのでありました^^
本当に暑かったですね?!
全国で一番の暑さだったって?
でしょうね、車の中は地獄のようでしたから^^;
また暑い夏がやってくると思うとちょっと閉口
でもその前にうっとおしい梅雨をやり過ごさないといけないんだった
ま、四季があるから日本の自然が楽しめるのに間違いはないんですがね
さてさて、土曜日、友達の結婚式に出席の次男を送り出し
天気もよかったので近場をちょこっとドライブしました
ところが最初目指していた場所がどこを探しても見あたりません
こんなところをウロウロしてました

で、そうそうに諦めてこちらに向かいました

菊陽町にある「鼻ぐり井手」です
本当に近場なのに話には聞けど、初めて目にするところです


”鼻ぐり”の意味も、ようとはわからずに行ったのですが
その水流穴の形が牛の鼻に通す”鼻ぐり”に似ているからとかで
通称では「鼻ぐり井手」と呼ばれています
本来は「馬場楠井手の鼻ぐり」と言うんですね
公園に模型がありました
最初は何かな?と思ったのですが^^;
水の中はこんなふうになっているんですね

この技法で水力を利用して土砂を次々に下流へ排出させることが出来るんですね
簡単なようで当時としては難しいことではなかったでしょうか
清正公が築いた馬場楠井出とは、白川中流左岸の馬場楠堰から渡鹿堰まで
全長12km の灌漑用開水を言います
当初360mの間に80ヶ所の鼻ぐりが設けられたようですが
後に鼻ぐりの機能を知らない藩役人の手で破壊されたり、土壌化や風化により
残るは24ヶ所になったとか(>_<)

うーん、数えてはいないけどそんなにあったかなあ^^;
鼻ぐり大橋の下はシダや草が生えていなかったので見やすかったですよ
平成9年度から6年かけて遺構の補修などを行ったことがここでわかります

上から見ているとひとつひとつの溜まりのところで
水がぐるぐる渦巻いているのが見てとれます

よく考えてあるものです
おや、清正公がおられましたよ

って、おいっ、ラボかい!
手が出てるし・・・
すっとぼけた顔して清正公に失礼じゃないかい^^;
でも、これってここに必要なのかな
そういう観光地じゃないと思うのですがね
この公園にはこれ以上、鼻ぐり井手を風化させたり崩したりしないように
ある程度長めの展望台が設けられています
公園とは反対側の土手には遊歩道もあるようでした
今はまだ小さい木も生えていました
今後この鼻ぐり井手を後世に残すためにも、まだいろんな努力が必要だと思います
通潤橋といい、鼻ぐり井手といい
肥後には、今でも誇れる水に関する土木事業が数々あります
これは清正公が技術を自らも学んで実践してきた賜ではないでしょうか
400年経っても使える技術
現代社会にそういったものがどれ程あるでしょうか
昔のことから学ぶことの多さに熟年夫婦も
感心したり感動したり、そして頭がついていかなかったりするのでありました^^

<馬場楠井手の鼻ぐり>
[アクセス]地図はコチラ
いやーっ、今日の夕方、次男がばたばたと戻っていきました^^
友達の結婚式もいいけれど、おまえはどうなってるのか、と聞くと
ぼちぼちやってるから、との返事!
って、意味わからんし・・・
まぁ、今の世の中、仕事があるだけでもマシです
健康で、ばりばり世のために働いてくれれば、親は何も言いません
ああ、早く孫が欲しいとは思いますけど^^
久しぶりに打ちっぱなしなんぞに二人で行ってきましたよ
そういえば、遅ればせながらすねかじりの長女から母の日のプレゼントが届きました
プリザーブドフラワーというものです
生花のようですが、数年は枯れないそうです
娘よ、母はこんなせんでよかったのにと言いながら、喜んでたよ
ありがとう^^
さて、先週のお出かけの最後は、嘉島町の「浮島」に寄ってきました
ここは近いのにゆっくり歩いたことはありません
子供達の飼っていたクワガタを逃がすときに来て以来かな^^
神社の前に駐車して、さて散策してみましょう
通称、浮島さんと呼ばれる「浮島熊野座神社」です
神社の裏側は大きな木が湖に向かってせり出していて
湖の周辺では心地よい木陰スポットの一つです
反対側から眺めると、神社はまるで湖面に浮かぶ竜宮城のようです
と、商工会のHPに載っていましたが
そう言われれば、そのような^^
湖の湧水量は、約15万m3/日、水温は年間を通して18℃!
熊本名水百選・熊本景観賞選定・新くまもと百景に指定されています
コイ、フナ、ウナギ、ハエ、エビと魚種も多いとのこと
この日も、夕暮れ迫る中、おじさんや子供達の太公望がたくさんいました
そして、こんなかわいい子が
らぼっちの足にまとわりついてきました^^
う?ん、ニャンコもいいよね♪
地域の人や動物達に憩いの場になっている「浮島」でした^^
友達の結婚式もいいけれど、おまえはどうなってるのか、と聞くと
ぼちぼちやってるから、との返事!
って、意味わからんし・・・
まぁ、今の世の中、仕事があるだけでもマシです
健康で、ばりばり世のために働いてくれれば、親は何も言いません
ああ、早く孫が欲しいとは思いますけど^^
久しぶりに打ちっぱなしなんぞに二人で行ってきましたよ

そういえば、遅ればせながらすねかじりの長女から母の日のプレゼントが届きました
プリザーブドフラワーというものです



生花のようですが、数年は枯れないそうです
娘よ、母はこんなせんでよかったのにと言いながら、喜んでたよ
ありがとう^^
さて、先週のお出かけの最後は、嘉島町の「浮島」に寄ってきました
ここは近いのにゆっくり歩いたことはありません
子供達の飼っていたクワガタを逃がすときに来て以来かな^^

神社の前に駐車して、さて散策してみましょう

通称、浮島さんと呼ばれる「浮島熊野座神社」です




神社の裏側は大きな木が湖に向かってせり出していて
湖の周辺では心地よい木陰スポットの一つです

反対側から眺めると、神社はまるで湖面に浮かぶ竜宮城のようです
と、商工会のHPに載っていましたが
そう言われれば、そのような^^

湖の湧水量は、約15万m3/日、水温は年間を通して18℃!
熊本名水百選・熊本景観賞選定・新くまもと百景に指定されています
コイ、フナ、ウナギ、ハエ、エビと魚種も多いとのこと
この日も、夕暮れ迫る中、おじさんや子供達の太公望がたくさんいました

そして、こんなかわいい子が
らぼっちの足にまとわりついてきました^^
う?ん、ニャンコもいいよね♪

地域の人や動物達に憩いの場になっている「浮島」でした^^

<浮島熊野座神社>
[アクセス]地図はコチラ
いいなぁ、って方はポチッしてね^^
いいよぉ、って方はポチッしてね^^
永尾神社の後、すぐ先にあるこちらを散策しました
宇城市不知火町の「土蔵白壁の町 松合」です
不知火町は、三方を山に囲まれ民家も密集、海風も吹き上げることから
文政9年から天保2年にかけて5年間に4度も大火で多くの家が消失しました
そこで、火災に強い土蔵白壁造りの家を建てるようになったそうです
今でも80棟近くの土蔵白壁建造物が残っています
一番端の井戸の前に車を止めて片道約400mの通りをぶ?らぶら散策しました
こちらは松合食品の工場です
徳川時代から醤油の町として栄えた松合郷の趣は残っています
後で、先にある直売所の方へ行ってみましょう^^
い?い雰囲気の煉瓦の壁もありましたよ

こちらが、ビジターセンターですが残念ながら閉まっています
週末に開けるのは難しいのかな
郷土資料館の前では、日陰で涼んでいるおじさんが約1名!
そのおじさんの前で「どうする?入る?」で、「おじゃましまーす」と入ると
すぐに、がらっと先ほどのおじさんが入ってこられました
郷土資料館の管理人さんでした、ならば「どうぞ、ご覧下さい」と言っていただければ^^
平成11年、台風18号の時の高潮が床下のこのあたりまで来たんですよ
と、柱についている赤い線を指さされました
ここは鈴木家というお屋敷で町が買い取って資料館にしたこと等を教えてくれました
高潮の被害を忘れないために、ここにも碑が建てられていました
他にもいろいろと昔の町並みを彷彿とさせる建物がたくさんありました
特にこの「汐見坂」っていうのがよかったですね
海まで見通せるので汐の状況がわかるということでしょう
その坂の途中で猫ちゃんと遭遇
ラボは友好的に近づきましたが、相手にすごく身構えられました
この松合土蔵白壁通りは、なかなかよいのですが
残念ながら、お茶やカフェなどで腰を下ろすところがないんです
ということは、お金が落ちないってことですよね
この辺り、もうひと工夫必要ではないかなと思った次第です
勝手なひとこと^^
「ビジターセンターはカフェにすべきです」
猫に威嚇されたラボ、暑さにまいったのか、日陰を見つけては
そこばかりを歩いています^^

この時のアスファルトで前足の肉球の皮がむけたようで
翌日はおとなしいなと思ったらびっこをひいてました、ごめんねラボ^^;
今はもう回復していつもの絶好調おじさんです^^
ちょうど醤油もきれかかっているということで
ちょっと松合食品の直売所へ行ってみることに^^
ここはいつも前を通るときに気にはなってたんですよね
なにっ、醤油ソフトが100円とな!
丸大豆醤油と、もちろん醤油ソフトを二つ購入♪
可愛らしいレジのお姉さんが作ってくれました
このソフト!小さいかと思ったら普通の大きさなんですよ
儲けはないでしょうと聞くと、社長の一言で100円と決まったとのこと^^
「お姉さん、宣伝しますから、1枚撮らせてください!」
やりましたよ、テルル会長! 働くお姉さん、激写^^/
すると、熟年夫婦も記念撮影とやらで撮ってくださいました
ありがとう^^
皆さーん、100円ソフトクリームは、超お得ですよ♪
その代わり、醤油や味噌もぜひ買って下さいね、お願いしまーす^^
とってもおいしかった?、ご馳走様でした♪
宇城市不知火町の「土蔵白壁の町 松合」です

不知火町は、三方を山に囲まれ民家も密集、海風も吹き上げることから
文政9年から天保2年にかけて5年間に4度も大火で多くの家が消失しました
そこで、火災に強い土蔵白壁造りの家を建てるようになったそうです
今でも80棟近くの土蔵白壁建造物が残っています


一番端の井戸の前に車を止めて片道約400mの通りをぶ?らぶら散策しました
こちらは松合食品の工場です

徳川時代から醤油の町として栄えた松合郷の趣は残っています
後で、先にある直売所の方へ行ってみましょう^^
い?い雰囲気の煉瓦の壁もありましたよ


こちらが、ビジターセンターですが残念ながら閉まっています
週末に開けるのは難しいのかな

郷土資料館の前では、日陰で涼んでいるおじさんが約1名!
そのおじさんの前で「どうする?入る?」で、「おじゃましまーす」と入ると
すぐに、がらっと先ほどのおじさんが入ってこられました
郷土資料館の管理人さんでした、ならば「どうぞ、ご覧下さい」と言っていただければ^^

平成11年、台風18号の時の高潮が床下のこのあたりまで来たんですよ
と、柱についている赤い線を指さされました

ここは鈴木家というお屋敷で町が買い取って資料館にしたこと等を教えてくれました



高潮の被害を忘れないために、ここにも碑が建てられていました

他にもいろいろと昔の町並みを彷彿とさせる建物がたくさんありました



特にこの「汐見坂」っていうのがよかったですね
海まで見通せるので汐の状況がわかるということでしょう


その坂の途中で猫ちゃんと遭遇
ラボは友好的に近づきましたが、相手にすごく身構えられました

この松合土蔵白壁通りは、なかなかよいのですが
残念ながら、お茶やカフェなどで腰を下ろすところがないんです
ということは、お金が落ちないってことですよね
この辺り、もうひと工夫必要ではないかなと思った次第です
勝手なひとこと^^
「ビジターセンターはカフェにすべきです」
猫に威嚇されたラボ、暑さにまいったのか、日陰を見つけては
そこばかりを歩いています^^

この時のアスファルトで前足の肉球の皮がむけたようで
翌日はおとなしいなと思ったらびっこをひいてました、ごめんねラボ^^;
今はもう回復していつもの絶好調おじさんです^^

ちょうど醤油もきれかかっているということで
ちょっと松合食品の直売所へ行ってみることに^^
ここはいつも前を通るときに気にはなってたんですよね

なにっ、醤油ソフトが100円とな!
丸大豆醤油と、もちろん醤油ソフトを二つ購入♪
可愛らしいレジのお姉さんが作ってくれました
このソフト!小さいかと思ったら普通の大きさなんですよ
儲けはないでしょうと聞くと、社長の一言で100円と決まったとのこと^^
「お姉さん、宣伝しますから、1枚撮らせてください!」

やりましたよ、テルル会長! 働くお姉さん、激写^^/
すると、熟年夫婦も記念撮影とやらで撮ってくださいました
ありがとう^^
皆さーん、100円ソフトクリームは、超お得ですよ♪
その代わり、醤油や味噌もぜひ買って下さいね、お願いしまーす^^

とってもおいしかった?、ご馳走様でした♪
<土蔵白壁の町 松合>
[アクセス]地図はコチラ
<松合食品株式会社>
[所在地]熊本県宇城市不知火町松合188
[TEL] 0964-42-2212
[FAX] 0964-42-2213
[営業時間] 9:00?18:00
[駐車場] あり
[アクセス]地図はコチラ
次男が友達の結婚式で、たった今帰ってきました
これから東京生活の話をゆっくり聞きたいと思います♪
さて、先週の土曜日、この日は朝からとっても天気のいい日だったので
ラボを連れて、ドライブがてら散歩に出かけました
まずは、松橋町に出来た「サンサンうきっ子宇城彩館」に立ち寄りました
4月末にオープンしたこともあって、建物は綺麗で、お客さんが多かったですね
とにかく、野菜や果物の量が多いのと種類が豊富なことにびっくりです
天井も高くて開放感いっぱい!
スイーツ系も和、洋とかなり充実しています
熟年の目的は、弁当の購入♪
うん、種類もたくさん、しかも安いのが嬉しい
そして向かったのが、不知火町のミカン山!
最高の景色を眺めながら弁当タイムです
ミカンの花が満開であたりは香りがプンプン
むせるようでした^^
でも太陽が真上にあるので、なかなか日陰が見あたりません
なんとか、樹園地の作業道路に木陰を見つけ、上に毛虫がいないことを確認^^
この二つの弁当はどちらも300円しないんですよ
まっ、安いにこしたことはないんですけど
売る側もたいへんな時代ですね
「ボクもその安いのが欲しいワン!」
山を下りて向かったのは、不知火町の「永尾(エイノオ)神社」です
くろさんが行かれていたところですね
国道266号線の「道の駅不知火」を過ぎてすぐのところにあります
神社の手前の狭い道を入ると数台は停められるスペースがありました
あった、あった、不知火の海岸に立つ鳥居!
なかなかいい眺めです^^
勢いよく石段を登っていくラボ
なんかえらく元気がいいなあ
石段の途中にあるところからさっきの鳥居が見えました
こちらの石段はちょっと登りにくそうですね^^;
おお、境内はずいぶん広いですよ
土俵もありました
この神社の創建は和銅6年(713年)で
祭神は「海童神(わだつみのかみ)」と伝えられています
伝承によれば海童神を乗せた巨大なエイが
海から山を乗り越えようとしたが果たせずここに鎮座した
そのエイの尾にある剣から、別名を「剣神社」とも言われています
前述の石段の途中から巨大なエイが上がってきたのでしょうかね
胃腸病にご利益があるというので近郷からの参拝者も多く
エイの絵馬と海の鳥居のあることで知られているようです
昭和3年に奉納された絵馬もありましたよ
また、八朔(旧暦8月1日)には八朔祭と不知火観望が重なるため
境内は県内外からの多数の見物客で夜通し賑わいます
なるほど、高いところにあって海が見渡せるので絶好の場所でしょうね
表参道にもまわってみました
きれいに掃除もされている静かな落ち着いた神社でした
不知火もいつか見てみたいと思っているのですが
早いうちに叶わせたいものです^^
これから東京生活の話をゆっくり聞きたいと思います♪
さて、先週の土曜日、この日は朝からとっても天気のいい日だったので
ラボを連れて、ドライブがてら散歩に出かけました
まずは、松橋町に出来た「サンサンうきっ子宇城彩館」に立ち寄りました

4月末にオープンしたこともあって、建物は綺麗で、お客さんが多かったですね
とにかく、野菜や果物の量が多いのと種類が豊富なことにびっくりです



天井も高くて開放感いっぱい!

スイーツ系も和、洋とかなり充実しています



熟年の目的は、弁当の購入♪
うん、種類もたくさん、しかも安いのが嬉しい

そして向かったのが、不知火町のミカン山!
最高の景色を眺めながら弁当タイムです


ミカンの花が満開であたりは香りがプンプン
むせるようでした^^
でも太陽が真上にあるので、なかなか日陰が見あたりません
なんとか、樹園地の作業道路に木陰を見つけ、上に毛虫がいないことを確認^^


この二つの弁当はどちらも300円しないんですよ
まっ、安いにこしたことはないんですけど
売る側もたいへんな時代ですね
「ボクもその安いのが欲しいワン!」

山を下りて向かったのは、不知火町の「永尾(エイノオ)神社」です
くろさんが行かれていたところですね
国道266号線の「道の駅不知火」を過ぎてすぐのところにあります
神社の手前の狭い道を入ると数台は停められるスペースがありました
あった、あった、不知火の海岸に立つ鳥居!
なかなかいい眺めです^^

勢いよく石段を登っていくラボ
なんかえらく元気がいいなあ

石段の途中にあるところからさっきの鳥居が見えました

こちらの石段はちょっと登りにくそうですね^^;

おお、境内はずいぶん広いですよ
土俵もありました


この神社の創建は和銅6年(713年)で
祭神は「海童神(わだつみのかみ)」と伝えられています
伝承によれば海童神を乗せた巨大なエイが
海から山を乗り越えようとしたが果たせずここに鎮座した
そのエイの尾にある剣から、別名を「剣神社」とも言われています
前述の石段の途中から巨大なエイが上がってきたのでしょうかね
胃腸病にご利益があるというので近郷からの参拝者も多く
エイの絵馬と海の鳥居のあることで知られているようです
昭和3年に奉納された絵馬もありましたよ


また、八朔(旧暦8月1日)には八朔祭と不知火観望が重なるため
境内は県内外からの多数の見物客で夜通し賑わいます

なるほど、高いところにあって海が見渡せるので絶好の場所でしょうね
表参道にもまわってみました

きれいに掃除もされている静かな落ち着いた神社でした
不知火もいつか見てみたいと思っているのですが
早いうちに叶わせたいものです^^
<サンサンうきっ子宇城彩館>
[所在地]宇城市松橋町久具757番地3
[アクセス]地図はコチラ
<永尾神社>
[所在地]宇城市不知火町永尾
[アクセス]地図はコチラ
近代文化の遺構、万田坑を見学した後
方々を旅行している年寄り3人も熟年夫婦もまだ経験したことのない
柳川の川下りをしてみようと、荒尾から柳川へ車を走らせました
川下りを予定していた乗船場はすぐにわかり
通常1500円の遊覧料のところ、クーポンにて10%引きで乗れることになりました
10分ほど待って乗船する時、乗り口のたもとに菅笠が置いてありました
これを被って川下りをすると風情があるんだろうなと思ったのですが
100円と聞いて止めました
この日は暑かったけど、我々の舟には菅笠を被った人はいませんでした
さあ、川下り70分コース、どんこ舟の出発で?す^^
お、早速橋をくぐるようですよ
「涼しいーー!」乗客は口々に叫びます
橋の下って本当に涼しかったですよ
くぐり終わるとそこは景色の違う広い川?でした
ここは少し進んだだけですぐさまUターンでした
すると、今くぐった橋は水門の場所でもあったんですね
舟がさっきの乗船場を通り過ぎると北原白秋の水中碑やかっぱの像がありました
柳川と言えば、白秋ですよね^^
このあたりはさすがに水の街だけあって
個々の家の勝手口がお堀に階段や石段で直結しています
生活の一部に利用されているんですね
しかし、橋が多いなあ、当たり前だけど
船頭さんも思いっきり頭を下げてかがんでいます
舵取りの竹の棒が引っかかったことはないのかね
しばらく行くとまだツツジがきれいに咲いているところがありました
舟の上から見るのもまた違った趣があります
カモが舟を除けて泳いでいたり
川岸からかわいい二人が手を振ってくれたり、かなり楽しいです
この後、柳川風物の一つとなっている並倉があったはずなのに気付かなかった^^;
川下りの途中には売店が何軒か出ており、注文があれば寄ってくれます
今回、この舟はスルーでした
また、しばらく行くと川に面してなにやら名前がたくさん
おお、阪神の真弓監督もこちらの出身だったのですね
松岡修造も在籍していたテニスで有名な柳川高校でした
さて、またしても狭い橋が見えてきましたよ
向こうからはすでに舟が進入してきています
どうするのかな、と見ておりました
すると、あっ、あっ、あーっ!、あ゛ーーーー!
「ががーーーー!!」
ぶつかってしまいました
ありえーん、こんなことあったらいかんでしょ!
向こうの舟は「先に通りまーす」と言ったから・・
こちらの舟は、下る舟の方が優先だから・・
と、どちらも譲らなかったのです
いくら混んでいるとはいえ衝突はないですよね
舟はゆっくりなので乗客が怪我をすることはなく、船首が少し傷付いただけでしょうが
双方の乗客の気分はいいものではありません
橋の名前が悪かったのかな
「やべえもんはし」(弥兵衛門橋)だったから?^^;
結局、あちらの舟が後ずさりして進路を譲ってくれました
すれ違う時もなんの挨拶もなかったな、ううーん
何事もなかったように舟は少々広いところに出ました
シロウオを捕る網がありました、「くもで網」と言うそうです
そして、白秋のまちぼうけの碑や壇一雄の文学碑、幟などが目を楽しませてくれます
またしても橋です
この橋では、ちょっとおもしろいエピソードを聞きました
以前は欄干がなく、船頭さんが舟から一旦橋に飛び移り
橋上を渡ってから再び舟に飛び乗る、といった芸当を見せていたようです
なかには舟にうまく飛び移れず、川の中へぼっちゃーん
なんてこともあったそうな
客を楽しませるサプライズを行っていたんですね^^
この後、きれいな橋があったり、飲兵衛のかっぱがいたり
ここを通り過ぎると外堀でも新緑の美しいところに出ます
木々も大きく、うまい具合に木陰を作ってくれています
見どころもたくさんありますよ
そうこうしていると終点が見えてきましたよ
お昼時だったので柳川名物のうなぎの匂いがそこらじゅうに充満していました
ずいぶんお客が並んでいる店もありました
やけに川岸に屋台がたくさん出ていると思ったら
ちょうど、終点にある沖端水天宮の大祭の初日でした
舟舞台で「オランダ囃子」ともいわれる囃子を奉納するらしいですよ
杉の葉をつけた舟舞台が今や遅しと出番を待っていました
柳川のお堀は毎日のように清掃船を使ってゴミ掃除を行っているそうです
お堀の脇にある家では、観光客のために花を飾っていたり
楽しんでもらおうという意気込みが感じられました
これからも豊かな自然と融合した水郷の街を守っていってほしいですね♪
さあ、お腹の減った年寄り3人と熟年2人はこの後、うなぎ!ではなく
母のお弁当を食べるところを探したのでありました、なはは
方々を旅行している年寄り3人も熟年夫婦もまだ経験したことのない
柳川の川下りをしてみようと、荒尾から柳川へ車を走らせました
川下りを予定していた乗船場はすぐにわかり
通常1500円の遊覧料のところ、クーポンにて10%引きで乗れることになりました
10分ほど待って乗船する時、乗り口のたもとに菅笠が置いてありました
これを被って川下りをすると風情があるんだろうなと思ったのですが
100円と聞いて止めました
この日は暑かったけど、我々の舟には菅笠を被った人はいませんでした
さあ、川下り70分コース、どんこ舟の出発で?す^^

お、早速橋をくぐるようですよ

「涼しいーー!」乗客は口々に叫びます
橋の下って本当に涼しかったですよ
くぐり終わるとそこは景色の違う広い川?でした

ここは少し進んだだけですぐさまUターンでした
すると、今くぐった橋は水門の場所でもあったんですね

舟がさっきの乗船場を通り過ぎると北原白秋の水中碑やかっぱの像がありました
柳川と言えば、白秋ですよね^^


このあたりはさすがに水の街だけあって
個々の家の勝手口がお堀に階段や石段で直結しています
生活の一部に利用されているんですね

しかし、橋が多いなあ、当たり前だけど
船頭さんも思いっきり頭を下げてかがんでいます
舵取りの竹の棒が引っかかったことはないのかね



しばらく行くとまだツツジがきれいに咲いているところがありました
舟の上から見るのもまた違った趣があります

カモが舟を除けて泳いでいたり
川岸からかわいい二人が手を振ってくれたり、かなり楽しいです


この後、柳川風物の一つとなっている並倉があったはずなのに気付かなかった^^;
川下りの途中には売店が何軒か出ており、注文があれば寄ってくれます
今回、この舟はスルーでした

また、しばらく行くと川に面してなにやら名前がたくさん

おお、阪神の真弓監督もこちらの出身だったのですね
松岡修造も在籍していたテニスで有名な柳川高校でした
さて、またしても狭い橋が見えてきましたよ
向こうからはすでに舟が進入してきています

どうするのかな、と見ておりました
すると、あっ、あっ、あーっ!、あ゛ーーーー!
「ががーーーー!!」
ぶつかってしまいました
ありえーん、こんなことあったらいかんでしょ!
向こうの舟は「先に通りまーす」と言ったから・・
こちらの舟は、下る舟の方が優先だから・・
と、どちらも譲らなかったのです
いくら混んでいるとはいえ衝突はないですよね
舟はゆっくりなので乗客が怪我をすることはなく、船首が少し傷付いただけでしょうが
双方の乗客の気分はいいものではありません
橋の名前が悪かったのかな
「やべえもんはし」(弥兵衛門橋)だったから?^^;
結局、あちらの舟が後ずさりして進路を譲ってくれました
すれ違う時もなんの挨拶もなかったな、ううーん
何事もなかったように舟は少々広いところに出ました
シロウオを捕る網がありました、「くもで網」と言うそうです

そして、白秋のまちぼうけの碑や壇一雄の文学碑、幟などが目を楽しませてくれます



またしても橋です

この橋では、ちょっとおもしろいエピソードを聞きました
以前は欄干がなく、船頭さんが舟から一旦橋に飛び移り
橋上を渡ってから再び舟に飛び乗る、といった芸当を見せていたようです
なかには舟にうまく飛び移れず、川の中へぼっちゃーん
なんてこともあったそうな
客を楽しませるサプライズを行っていたんですね^^
この後、きれいな橋があったり、飲兵衛のかっぱがいたり


ここを通り過ぎると外堀でも新緑の美しいところに出ます

木々も大きく、うまい具合に木陰を作ってくれています
見どころもたくさんありますよ


そうこうしていると終点が見えてきましたよ
お昼時だったので柳川名物のうなぎの匂いがそこらじゅうに充満していました
ずいぶんお客が並んでいる店もありました

やけに川岸に屋台がたくさん出ていると思ったら
ちょうど、終点にある沖端水天宮の大祭の初日でした
舟舞台で「オランダ囃子」ともいわれる囃子を奉納するらしいですよ
杉の葉をつけた舟舞台が今や遅しと出番を待っていました

柳川のお堀は毎日のように清掃船を使ってゴミ掃除を行っているそうです
お堀の脇にある家では、観光客のために花を飾っていたり
楽しんでもらおうという意気込みが感じられました

これからも豊かな自然と融合した水郷の街を守っていってほしいですね♪
さあ、お腹の減った年寄り3人と熟年2人はこの後、うなぎ!ではなく
母のお弁当を食べるところを探したのでありました、なはは
<沖端水天宮>
[所在地]福岡県柳川市矢留
[アクセス]地図はコチラ
まだまだG.Wネタですみません^^;
G.Wも終盤の5月3日、田川の両親と伯母を連れて「万田坑」に行ってきました
先月の25日から世界遺産の登録を目指して新たに一般公開されるようになったからです^^
2月に行った記事はコチラ
渋滞を避けようと朝早く実家を出発して、荒尾に向かう道中
同じく炭坑の町として知られる田川で
母や伯母の従兄弟が炭坑事故に遭い、命を落としたという話を初めて耳にしました
炭坑は当時、町の産業として活気に満ちあふれ、人々の生活を豊かにしました
ですが、その影に悲惨な炭鉱事故も少なくはなく
炭坑夫は死と隣り合わせで仕事をしていたわけです
車の中では複雑な空気が流れましたが
父以外、炭坑跡に足を踏み入れたことのない4人は
とりあえず見てみたいという好奇心が勝り、さほど混んでいない高速を走りました
万田坑の駐車場は案の定狭かったです
開坑開始時間すぐだったのでスムーズに止められてよかった?^^
前回はこの辺りからしか見れませんでした
この日は天気も良く、だんだんと人が増えてきそうな気配です
入坑券は駐車場近くのステーションで購入、正式な入り口は万田坑の正門のところでした
いろいろな施設が残っているんですね?
<山ノ神祭祀施設> 国重要文化財
まずは坑内で働く人々の安全祈願をしていたところです
入坑前に無事に作業を終えられるように必ず拝礼をしていたということです
<第二竪坑巻揚機室> 国重要文化財
一番入ってみたかったところですね
入り口で係のおっちゃんからヘルメットを渡され、被ってから階段を上がります
階段を登っている途中からなにか威圧感を感じます
それもそのはず、頭上にはこーんな大きな巻き揚げ機がありました
壁には当時の仕様などが掲げられていましたが、さーっぱりわかりません
ここで第二竪坑のケージを昇降させていたんですね
せまい部屋で見た目には簡単そうな機器で操業してたなんて驚きます
外に出るとすぐ、石炭を燃やし蒸気を発生させていた汽罐場があります
現在はごく一部の煉瓦壁しか残っていません
その汽罐場や変電所を過ぎると第一竪坑のあった場所があります
<第一竪坑坑口>
採掘された石炭を引き揚げる坑口で、坑底までの深さは271mあったそうです
当時、東洋一の規模だった高さ30.7mの櫓を支えていたコンクリートの基礎が残っています
櫓は昭和29年に北海道の三井芦別炭坑に移設、再利用されました
G.Wは「復坑祭イベント」なるものが催されていたようで
この日も選炭場のあった広場で早い時間から
歌のステージのリハーサルが行われていました
ただ、これがうるさいのなんのって^^;
耳がキーン、ツーンときましたよ
復坑祭はいいですけど、こういう歌で人が集まっても一過性でしょう
なぜ施設の歴史的価値を全面に出したイベントにしないのでしょうか
非常に、残念でした
<第二竪坑櫓> 国重要文化財
立入禁止になっていたのでぐるっと廻って櫓の下に行ってみました
なんだか少し緊張しながら入っていきました
こちらでは炭坑マンの昇降や機材の搬出入、そして坑内の換気や排水を行っていました
櫓の高さは18.9m、坑口から坑底までの深さは264mだったそうです
もちろん今は埋めてあります
1分をかけてケージが昇降していたようですよ
機械室は質素な感じでした
炭坑夫が乗っていたであろうゴンドラ(ケージ)を見て親父は何思う?
なあんてね^^
次行ってみよー!
<安全燈室及び浴室(旧扇風機機械室)> 国重要文化財
建設当初は扇風機を動かす機械室でしたが
1951年(昭和26年)に万田坑が閉坑になってからは安全燈室と浴室になりました
窓が開いていたので覗いてみると、コンクリートの浴槽が見えました
<倉庫及びポンプ室> 国重要文化財
建設当初は坑内の換気を行うための蒸気を動力とした扇風機室でしたが
その後、予備の消化器を置く倉庫や
坑内から汲み上げられた水を送水するためのポンプ室として利用されました
<事務所(旧扇風機室)> 国重要文化財

こちらは最初、坑内の換気を行う電気を動力とした扇風機が備え付けられていました
閉坑後は更衣室、事務室などとして利用されていたようです
廻ってみて思ったことですが
構内の要所にガイドの方がおられたら
説明が聞けてよかったのではないでしょうか
団体さんにはどなたかが説明されていたのを見ましたけど^^;
日本が高度成長期に入る以前から、石炭という”黒いダイヤ”が
貴重な資源として、戦後の復興に大きく貢献した事実を忘れることなく
次世代に語り続けるためにも、この施設を世界遺産として認められればいいですね
G.Wも終盤の5月3日、田川の両親と伯母を連れて「万田坑」に行ってきました
先月の25日から世界遺産の登録を目指して新たに一般公開されるようになったからです^^
2月に行った記事はコチラ
渋滞を避けようと朝早く実家を出発して、荒尾に向かう道中
同じく炭坑の町として知られる田川で
母や伯母の従兄弟が炭坑事故に遭い、命を落としたという話を初めて耳にしました
炭坑は当時、町の産業として活気に満ちあふれ、人々の生活を豊かにしました
ですが、その影に悲惨な炭鉱事故も少なくはなく
炭坑夫は死と隣り合わせで仕事をしていたわけです
車の中では複雑な空気が流れましたが
父以外、炭坑跡に足を踏み入れたことのない4人は
とりあえず見てみたいという好奇心が勝り、さほど混んでいない高速を走りました
万田坑の駐車場は案の定狭かったです
開坑開始時間すぐだったのでスムーズに止められてよかった?^^

前回はこの辺りからしか見れませんでした
この日は天気も良く、だんだんと人が増えてきそうな気配です
入坑券は駐車場近くのステーションで購入、正式な入り口は万田坑の正門のところでした
いろいろな施設が残っているんですね?

<山ノ神祭祀施設> 国重要文化財


まずは坑内で働く人々の安全祈願をしていたところです
入坑前に無事に作業を終えられるように必ず拝礼をしていたということです
<第二竪坑巻揚機室> 国重要文化財


一番入ってみたかったところですね
入り口で係のおっちゃんからヘルメットを渡され、被ってから階段を上がります


階段を登っている途中からなにか威圧感を感じます
それもそのはず、頭上にはこーんな大きな巻き揚げ機がありました

壁には当時の仕様などが掲げられていましたが、さーっぱりわかりません



ここで第二竪坑のケージを昇降させていたんですね

せまい部屋で見た目には簡単そうな機器で操業してたなんて驚きます
外に出るとすぐ、石炭を燃やし蒸気を発生させていた汽罐場があります
現在はごく一部の煉瓦壁しか残っていません
その汽罐場や変電所を過ぎると第一竪坑のあった場所があります
<第一竪坑坑口>


採掘された石炭を引き揚げる坑口で、坑底までの深さは271mあったそうです
当時、東洋一の規模だった高さ30.7mの櫓を支えていたコンクリートの基礎が残っています
櫓は昭和29年に北海道の三井芦別炭坑に移設、再利用されました
G.Wは「復坑祭イベント」なるものが催されていたようで
この日も選炭場のあった広場で早い時間から
歌のステージのリハーサルが行われていました
ただ、これがうるさいのなんのって^^;
耳がキーン、ツーンときましたよ
復坑祭はいいですけど、こういう歌で人が集まっても一過性でしょう
なぜ施設の歴史的価値を全面に出したイベントにしないのでしょうか
非常に、残念でした

<第二竪坑櫓> 国重要文化財
立入禁止になっていたのでぐるっと廻って櫓の下に行ってみました


なんだか少し緊張しながら入っていきました

こちらでは炭坑マンの昇降や機材の搬出入、そして坑内の換気や排水を行っていました
櫓の高さは18.9m、坑口から坑底までの深さは264mだったそうです
もちろん今は埋めてあります
1分をかけてケージが昇降していたようですよ
機械室は質素な感じでした



炭坑夫が乗っていたであろうゴンドラ(ケージ)を見て親父は何思う?
なあんてね^^
次行ってみよー!

<安全燈室及び浴室(旧扇風機機械室)> 国重要文化財


建設当初は扇風機を動かす機械室でしたが
1951年(昭和26年)に万田坑が閉坑になってからは安全燈室と浴室になりました
窓が開いていたので覗いてみると、コンクリートの浴槽が見えました


<倉庫及びポンプ室> 国重要文化財


建設当初は坑内の換気を行うための蒸気を動力とした扇風機室でしたが
その後、予備の消化器を置く倉庫や
坑内から汲み上げられた水を送水するためのポンプ室として利用されました
<事務所(旧扇風機室)> 国重要文化財


こちらは最初、坑内の換気を行う電気を動力とした扇風機が備え付けられていました
閉坑後は更衣室、事務室などとして利用されていたようです
廻ってみて思ったことですが
構内の要所にガイドの方がおられたら
説明が聞けてよかったのではないでしょうか
団体さんにはどなたかが説明されていたのを見ましたけど^^;

日本が高度成長期に入る以前から、石炭という”黒いダイヤ”が
貴重な資源として、戦後の復興に大きく貢献した事実を忘れることなく
次世代に語り続けるためにも、この施設を世界遺産として認められればいいですね

<万田坑>
[所在地]荒尾市原万田200番地2
[開坑時間]午前9時30分?午後5時
[入坑料]大人 400円(団体 320円)
高校生 300円(団体 240円)
小中学生 200円(団体 160円)
乳幼児 無料
[休坑日]毎週月曜日(祝日の場合は翌日)
12月29日?1月3日
[駐車場]普通車72台(大型バス5台、中型バス3台もあり)
[アクセス]地図はコチラ
ようやく薩摩探訪の最後の記事です^^
熟年夫婦が巡るところですから、やはりこのネタはありでしょう^^
ということで、鹿児島県にある日本一の巨樹を二つ紹介します
<日本一の大茶樹>
初日の霧島神宮から和気神社に向かう途中
県道470号線沿いで見つけたのが、この案内板!
「なに、日本一の大茶樹とな」
ちょっくら、狭い脇道を入ってみましょうかね
少しはいると、周りを畑に囲まれた一角に砂利を敷き詰めた駐車場が表れました
なんとこれがお茶の木ですか
整然と手入れされた茶園しか見慣れていないので
ちょと驚きました
茶って放っておくとこんなに高くなるんですね
この大茶樹は、江戸時代初期寛永年間 (約380年前)に植えられ
日本一と言われた初代大茶樹を明治終わりごろに挿し木したものだそうです
2代目も、樹齢100年、樹周0.67m、樹冠の広がりは
南北6.4m、東西6.1m、高さは4.1mに達し県内で最古・最大といわれています
ん?日本一はあなたではなくてお父さんのほうだったのね^^
<蒲生のクス>
もう一つの日本一の木はあまりにも有名な「蒲生のクス」です
これが本当に最後の寄り道です
「蒲生八幡神社」の境内にそびえ立つ大クスは、樹齢約1500年
日本で一番大きなクスです
環境庁が昭和63年に実施した巨樹・巨木林調査で、正真正銘の日本一に認定されています
昭和27年3月29日には特別天然記念物にも指定されています
らぼっちは、確か20年以上前に会社の旅行で来たことがありますが
その頃は「へぇ」くらいで失礼しましたので今回はじっくりと見上げさせてもらいますよ^^
この神社参道入口には「蒲生観光交流センター」という新しい施設がありましたが
もう夕方も遅かったので、残念ながら閉店していました、残念!
物産館前の広場になにやら、色違いで模様が広がっていますね
説明書きにびっくり!
これは蒲生の大クスの断面だそうです、さすがにデカッ!
本物が楽しみじゃ^^
では参道を上ってみましょう
すぐに、大きなクスが見えてきましたよ
高さ的には手前の若い楠の方がありそうです
この蒲生八幡神宮は、全体的に大木が多そうですね
境内左側にそれらしいものが見えてきましたよ^^
では、まいります^^
ど、ど、どーん!!
ほ?っ、なるほど^^
やはり日本一のおじいちゃんクスだけのことはあります
このどーんと構えた圧倒的な存在感!
根の部分に大きな岩のような瘤があります
この大きな幹の中には8畳敷きにもなる空洞があるそうです
樹勢は、まだまだ元気そうで若葉をたくさんつけていました^^
周囲を巡る保護柵は、土を閉め固めて根を傷めないようになっています
大切なことですね
静かな佇まいの中、神社内をゆっくりと散策することができました
さて、陽も相当傾いてきました
二日間に渡る薩摩探訪も、これでようやく終わりです
皆さん、歴史の勉強になりましたでしょうか
一番勉強したのは熟年夫婦なんですけどね^^
急いで、ラボの待つ肥後へ戻りましょう^^
マニアック日記におつき合いくださいまして
ほんとうに、ありがとうございましたm(_ _)m
熟年夫婦が巡るところですから、やはりこのネタはありでしょう^^
ということで、鹿児島県にある日本一の巨樹を二つ紹介します
<日本一の大茶樹>
初日の霧島神宮から和気神社に向かう途中
県道470号線沿いで見つけたのが、この案内板!

「なに、日本一の大茶樹とな」
ちょっくら、狭い脇道を入ってみましょうかね
少しはいると、周りを畑に囲まれた一角に砂利を敷き詰めた駐車場が表れました


なんとこれがお茶の木ですか
整然と手入れされた茶園しか見慣れていないので
ちょと驚きました
茶って放っておくとこんなに高くなるんですね

この大茶樹は、江戸時代初期寛永年間 (約380年前)に植えられ
日本一と言われた初代大茶樹を明治終わりごろに挿し木したものだそうです
2代目も、樹齢100年、樹周0.67m、樹冠の広がりは
南北6.4m、東西6.1m、高さは4.1mに達し県内で最古・最大といわれています
ん?日本一はあなたではなくてお父さんのほうだったのね^^
<蒲生のクス>
もう一つの日本一の木はあまりにも有名な「蒲生のクス」です
これが本当に最後の寄り道です
「蒲生八幡神社」の境内にそびえ立つ大クスは、樹齢約1500年
日本で一番大きなクスです
環境庁が昭和63年に実施した巨樹・巨木林調査で、正真正銘の日本一に認定されています
昭和27年3月29日には特別天然記念物にも指定されています
らぼっちは、確か20年以上前に会社の旅行で来たことがありますが
その頃は「へぇ」くらいで失礼しましたので今回はじっくりと見上げさせてもらいますよ^^
この神社参道入口には「蒲生観光交流センター」という新しい施設がありましたが
もう夕方も遅かったので、残念ながら閉店していました、残念!


物産館前の広場になにやら、色違いで模様が広がっていますね
説明書きにびっくり!

これは蒲生の大クスの断面だそうです、さすがにデカッ!
本物が楽しみじゃ^^
では参道を上ってみましょう

すぐに、大きなクスが見えてきましたよ
高さ的には手前の若い楠の方がありそうです
この蒲生八幡神宮は、全体的に大木が多そうですね

境内左側にそれらしいものが見えてきましたよ^^

では、まいります^^
ど、ど、どーん!!


ほ?っ、なるほど^^
やはり日本一のおじいちゃんクスだけのことはあります
このどーんと構えた圧倒的な存在感!
根の部分に大きな岩のような瘤があります
この大きな幹の中には8畳敷きにもなる空洞があるそうです



樹勢は、まだまだ元気そうで若葉をたくさんつけていました^^
周囲を巡る保護柵は、土を閉め固めて根を傷めないようになっています
大切なことですね

静かな佇まいの中、神社内をゆっくりと散策することができました

さて、陽も相当傾いてきました

二日間に渡る薩摩探訪も、これでようやく終わりです
皆さん、歴史の勉強になりましたでしょうか
一番勉強したのは熟年夫婦なんですけどね^^
急いで、ラボの待つ肥後へ戻りましょう^^
マニアック日記におつき合いくださいまして
ほんとうに、ありがとうございましたm(_ _)m
<二代目 日本一の大茶樹>
[アクセス]地図はコチラ
<蒲生(カモウ)のクス>
[所在地]鹿児島県姶良郡蒲生町上久徳
[推定樹齢]1500年
[樹高]30m
[根廻り]33.57m
[幹廻り]24.22m
[アクセス]地図はコチラ
なんと「ヤワラちゃん」が参院選に出るって!
週が開けたと思った途端、たまがりました?@@
”何でもあり”なのかと思ったのはウチだけでしょうか
現役続行でロンドンを目指しながら選挙に出馬するとか
お母さんや野球選手の奥さんとしてはどうなるの?
そして今日、サッカーW杯の日本代表23名の発表がありましたね
淡々と早口に読み上げる岡田監督のいつにもましてのポーカーフェイスは
代表候補やサッカーファンにとってサプライズを期待させるものではありませんでした
熟年夫婦イチオシのFC東京の石川選手は選ばれずにとっても残念!
FW5人のうちのひとりは要らないんじゃないかと少々不満の我が家です
でも、選ばれた23名の代表は悔いが残らぬよう
日の丸の重みをしっかり背負って、最後まで走りきって欲しいものです
目標、決勝トナーメント進出!
もとい、目標、優勝!!!!
?*?*?*?*?*?*?*?*?*?*?*?*?*?*?*?*?
さてと、薩摩探訪の続きですよ
しんみりとなった城山からまた街のほうへ下り
鹿児島で話題のスイーツがあると聞きつけて支店を何軒か訪ねてみましたが
店がわからなかったり、売り切れていたり
そりゃ、夕方行けばあるわけないじゃん!
と後ろ髪を引かれつつも、納得してあきらめました
お昼は歩き疲れ、そこら辺で済ませたので
おやつくらいは、と思っていたのに
おいしいものは手にも口にも入らず、力なく向かった先は
「石橋記念公園」です
甲突川は昔から川の屈曲や堤防の凹凸も多く毎年のように氾濫していました
そこで薩摩藩は、1838年(天保9年)の大水害を契機に
城下整備、護岸整備、治水対策を進めるために
我が熊本、肥後の国から名石工「岩永三五郎(いわながさんごろう)」を招いて
石橋を架けることにしました
これが我が国最初の多連式アーチ橋「甲突川の五石橋」です
八代出身の岩永三五郎の記事はコチラ
歴史的創建以来150年余の間、現役の橋として利用されてきていましたが
平成5年の集中豪雨による洪水で、鹿児島市内は多大な被害を受けました
中央を流れる甲突川(こうつきがわ)は濁流となって市内中心地の天文館をも襲い
甲突川五石橋のうちの新上橋 (しんかんばし)と武之橋(たけのはし) が流失しました
一番長い橋と一番短い橋がなくなってしまったわけです
そこで平成12年、郷土の文化遺産を次世代に残そうと
残った西田橋、高麗橋、玉江橋を移設復元した石橋記念公園が
五石橋の歴史や技術を伝える石橋記念館と共に開園したのです
ん?公園全体も記念館も写真がない・・こりゃまた失礼いたしましたっ^^;
じゃ、駐車場の真ん前にあるお目当ての石橋を見学するとしましょう
<西田橋>
・形式:石橋四連アーチ
・橋長:49.5m
・橋幅: 6.2m
・完成:1846年
参勤交代の列が通った西田橋は、城下の玄関口となった橋です
木橋時代の青銅製擬宝珠をそのまま使ってあったり
他の4橋に比べて約3倍もの建設費がかかったそうです
アーチの間の石組みもアーチになっているところが岩永三五郎の特色だそうです
でもそれは西田橋のみでした
ところで、この公園は川はなく石橋も人工の川を跨いでいます
こんな所から出ているんですが、上水を循環させて流しています
維持管理費かかりすぎだろう、と思ったのはらぼっちだけではないはず^^

橋のたもとには西田橋御門が復元されていました
城下の武士や町人、領内を通過する旅人はこの脇の番所で改めを受けて通行していたそうです
西南戦争で焼失したようですが
西田橋の解体時に礎石の根石が一部見つかったことで復元されたとのことです
門をくぐり連絡橋を渡ると次の橋が見えてきましたが
その横に錦江湾を向いて立っている人物がいました
はい、「岩永三五郎」の銅像です
八代市鏡町の銅像と全く同じ形ですが、こちらのほうが大きいですね
三五郎は1840年(天保11年)?1849年(嘉永2年)までの10年、薩摩に滞在し
橋だけではなく土木事業全体の技術者として活躍したようですね
20橋近くの橋を手掛けたようですが
1842年(天保13年)頃、三五郎がこの公園を流れる稲荷川河口近くに
鹿児島で初めての永安橋を築造したということで
こういうものが 隣に置いてありましたよ
銅像の反対側にはその永安橋の基礎となった石が二つあったのですが
そんな記念すべき石だと知らない熟年夫婦はスルーしたのでありました(おバカ!)
<高麗橋>
・形式:石橋四連アーチ
・橋長:54.9m
・橋幅: 5.4m
・完成:1847年
上から見ると敷石の並べ方が西田橋と似ていますね
五石橋のうち3番目に架けた橋で
上流側の水切石が垂直に近い勾配で立ち上がった形が独特といわれています
が、真ん中の水切りの上部に段があるのが気になったんです
手前のは平らなのに
わかりますか?
ちと細か過ぎますかね^^;
この高麗橋の海側にはこんな石碑がありました
祇園之洲砲台跡です
幕末、城下町沿岸の9箇所に築かれていた砲台のひとつでした
1853年島津斉彬の命で築かれましたが、薩英戦争でイギリス艦隊の砲撃を受けました
薩英戦争の記念碑もありましたよ
おもしろい形の記念碑でした
立派な松もありました
そして一番奥にある橋です
<玉江橋>
・形式:石橋四連アーチ
・橋長:50.7m
・橋幅: 4.0m
・完成:1849年
五石橋のうち最後に架けられた橋で、やはり一番奥にありました
甲突川の最上流にあり洪水で水切石などが被害を受けて度々補修されていたようです
どおりで石の角がきれいだと思った^^;
欄干は実用本位で造ってあるようでかなり地味でした
写真は撮り忘れましたが、駐車場脇には無料の「石橋記念館」があります
地下の資料館には石橋の歴史や石橋の工程を分かりやすくアニメで紹介したり
石橋マニアにはたまらない空間になっていました
ゆっくりできなかったのが、ちと残念^^
GWなのに人が少なかったのがちょっと気になりました^^
桜島もよく見えました!
週が開けたと思った途端、たまがりました?@@
”何でもあり”なのかと思ったのはウチだけでしょうか
現役続行でロンドンを目指しながら選挙に出馬するとか
お母さんや野球選手の奥さんとしてはどうなるの?
そして今日、サッカーW杯の日本代表23名の発表がありましたね
淡々と早口に読み上げる岡田監督のいつにもましてのポーカーフェイスは
代表候補やサッカーファンにとってサプライズを期待させるものではありませんでした
熟年夫婦イチオシのFC東京の石川選手は選ばれずにとっても残念!
FW5人のうちのひとりは要らないんじゃないかと少々不満の我が家です
でも、選ばれた23名の代表は悔いが残らぬよう
日の丸の重みをしっかり背負って、最後まで走りきって欲しいものです
目標、決勝トナーメント進出!
もとい、目標、優勝!!!!
?*?*?*?*?*?*?*?*?*?*?*?*?*?*?*?*?
さてと、薩摩探訪の続きですよ
しんみりとなった城山からまた街のほうへ下り
鹿児島で話題のスイーツがあると聞きつけて支店を何軒か訪ねてみましたが
店がわからなかったり、売り切れていたり
そりゃ、夕方行けばあるわけないじゃん!
と後ろ髪を引かれつつも、納得してあきらめました
お昼は歩き疲れ、そこら辺で済ませたので
おやつくらいは、と思っていたのに
おいしいものは手にも口にも入らず、力なく向かった先は
「石橋記念公園」です

甲突川は昔から川の屈曲や堤防の凹凸も多く毎年のように氾濫していました
そこで薩摩藩は、1838年(天保9年)の大水害を契機に
城下整備、護岸整備、治水対策を進めるために
我が熊本、肥後の国から名石工「岩永三五郎(いわながさんごろう)」を招いて
石橋を架けることにしました
これが我が国最初の多連式アーチ橋「甲突川の五石橋」です
八代出身の岩永三五郎の記事はコチラ
歴史的創建以来150年余の間、現役の橋として利用されてきていましたが
平成5年の集中豪雨による洪水で、鹿児島市内は多大な被害を受けました
中央を流れる甲突川(こうつきがわ)は濁流となって市内中心地の天文館をも襲い
甲突川五石橋のうちの新上橋 (しんかんばし)と武之橋(たけのはし) が流失しました
一番長い橋と一番短い橋がなくなってしまったわけです


そこで平成12年、郷土の文化遺産を次世代に残そうと
残った西田橋、高麗橋、玉江橋を移設復元した石橋記念公園が
五石橋の歴史や技術を伝える石橋記念館と共に開園したのです
ん?公園全体も記念館も写真がない・・こりゃまた失礼いたしましたっ^^;
じゃ、駐車場の真ん前にあるお目当ての石橋を見学するとしましょう
<西田橋>


・形式:石橋四連アーチ
・橋長:49.5m
・橋幅: 6.2m
・完成:1846年
参勤交代の列が通った西田橋は、城下の玄関口となった橋です
木橋時代の青銅製擬宝珠をそのまま使ってあったり
他の4橋に比べて約3倍もの建設費がかかったそうです

アーチの間の石組みもアーチになっているところが岩永三五郎の特色だそうです
でもそれは西田橋のみでした

ところで、この公園は川はなく石橋も人工の川を跨いでいます
こんな所から出ているんですが、上水を循環させて流しています
維持管理費かかりすぎだろう、と思ったのはらぼっちだけではないはず^^

橋のたもとには西田橋御門が復元されていました


城下の武士や町人、領内を通過する旅人はこの脇の番所で改めを受けて通行していたそうです
西南戦争で焼失したようですが
西田橋の解体時に礎石の根石が一部見つかったことで復元されたとのことです
門をくぐり連絡橋を渡ると次の橋が見えてきましたが
その横に錦江湾を向いて立っている人物がいました
はい、「岩永三五郎」の銅像です

八代市鏡町の銅像と全く同じ形ですが、こちらのほうが大きいですね
三五郎は1840年(天保11年)?1849年(嘉永2年)までの10年、薩摩に滞在し
橋だけではなく土木事業全体の技術者として活躍したようですね
20橋近くの橋を手掛けたようですが
1842年(天保13年)頃、三五郎がこの公園を流れる稲荷川河口近くに
鹿児島で初めての永安橋を築造したということで
こういうものが 隣に置いてありましたよ

銅像の反対側にはその永安橋の基礎となった石が二つあったのですが
そんな記念すべき石だと知らない熟年夫婦はスルーしたのでありました(おバカ!)
<高麗橋>


・形式:石橋四連アーチ
・橋長:54.9m
・橋幅: 5.4m
・完成:1847年
上から見ると敷石の並べ方が西田橋と似ていますね

五石橋のうち3番目に架けた橋で
上流側の水切石が垂直に近い勾配で立ち上がった形が独特といわれています
が、真ん中の水切りの上部に段があるのが気になったんです
手前のは平らなのに
わかりますか?

ちと細か過ぎますかね^^;
この高麗橋の海側にはこんな石碑がありました


祇園之洲砲台跡です
幕末、城下町沿岸の9箇所に築かれていた砲台のひとつでした
1853年島津斉彬の命で築かれましたが、薩英戦争でイギリス艦隊の砲撃を受けました
薩英戦争の記念碑もありましたよ
おもしろい形の記念碑でした

立派な松もありました

そして一番奥にある橋です
<玉江橋>


・形式:石橋四連アーチ
・橋長:50.7m
・橋幅: 4.0m
・完成:1849年
五石橋のうち最後に架けられた橋で、やはり一番奥にありました
甲突川の最上流にあり洪水で水切石などが被害を受けて度々補修されていたようです
どおりで石の角がきれいだと思った^^;

欄干は実用本位で造ってあるようでかなり地味でした

写真は撮り忘れましたが、駐車場脇には無料の「石橋記念館」があります
地下の資料館には石橋の歴史や石橋の工程を分かりやすくアニメで紹介したり
石橋マニアにはたまらない空間になっていました
ゆっくりできなかったのが、ちと残念^^
GWなのに人が少なかったのがちょっと気になりました^^

桜島もよく見えました!
<石橋記念公園>
[所在地]鹿児島県鹿児島市浜町1-3
[開園]常時開園
<石橋記念館>
[電話] 099-248-6661
[開館時間] 午前9時?午後5時(7,8月は午後7時まで)
[休館日] 毎週月曜日
月曜日が休日の場合は翌日
年末年始(12/31?1/2)
[料金] 入場無料
[アクセス]地図はコチラ
昨日、ラボを連れて近場にドライブしたのですが
人も犬もばてるくらいの陽気でしたね^^
ラボも日影を選んで歩くような状況だったのですが
今朝気付くと、ぴょこたんぴょこたんと歩いてる
肉球見ても火傷や傷があるようには見えないし・・・
うーん、ちょっと、心配している熟年夫婦です
<鶴丸城址>
さあて、照国神社からまたまた歩いて「鶴丸城址」に向かいます
二の丸跡付近は水路と石垣が当時を思わせる雰囲気をただよわせています
街並みがとてもきれい^^
鯉がいたのですが、お腹が満足しているのか近づいてくれず逃げ回っていました
途中には、アコウが石垣に張り付いていたりしていました
さあ、大手門跡です
お堀には蓮の葉がたくさん浮かんでおり、古そうな石橋が迎えてくれました
石橋は当時のもので擬玉珠(ぎぼし)が付いているのが珍しいようです
有形文化財にはなっていないのかな?
「鶴丸城」は別名で、本来は「鹿児島城」と言います
鶴が翼を広げた形をしていたので「鶴丸城」と呼ばれていたとか
島津家の家紋が「鶴丸の紋」であったことによるとか言われているようですが
我々には「鶴丸城」のほうがなじみ深いですよね
慶長9年(1604年)に初代薩摩藩主・島津家久(忠恒)の命によって築城をし完成しましたが
海に近く「人をもって城となす」の考えで天守閣もない質素な平城でした
御楼門跡です
明治6年に城と共に焼失したということですが
門があったであろう場所は敷石が少し浮いた感じになっていて
横の石垣は後で押し込んだような雑な感じも見受けられました
石積みはいい雰囲気をかもし出していましたが
またしても写生集団に出くわし、写真はありません^^;
ここの石段を登ると鹿児島県歴史資料センター「黎明館(れいめいかん)」となっています
もちろん見学させてもらいました
なかなかよかったですよ!
3階まであるのでゆっくり見ていると日が暮れてしまうので、ざーっと見ました^^;
龍馬のミニミニコーナー(本当にちょこっとでした)はちゃんと見ましたよ
さて薩摩の歴史も少し勉強したところで
黎明館の東側にある歴史的なところにも立ち寄ってみました
薩摩義士碑や私学校跡
薩摩藩の繁栄を願わない幕府の政策手段のため
木曽川、長良川、揖斐川の3河川の治水の難工事にあたり
多くの犠牲をはらった薩摩義士達の碑にはなぜかとっちんは近づかず
明治6年、鹿児島に戻った西郷隆盛を慕ってついてきた者たちが多かったので
鶴丸城の厩跡に開設した学校がここにありました
ここで是非とも見たかったのがこの石垣なんです
そうです、西南戦争の銃弾跡です
西南戦争の発端はこの私学校にあるのですが
こうも激しい銃弾跡だとは思いもよりませんでした
<城山公園>
さて、ここからは西郷どんの最後の足跡をたどってみたいと思います
たいした距離を歩いたわけではないのですが、暑さに疲れ車で城山公園に登っていきました
西南戦争において撤退せざるをえなかった薩摩軍は
官軍の執拗な追撃に数々の困難を乗り越えて、標高107mの城山にたてこもります
売店の奥に「城山ドン広場」なるものがあったようです
そういえば、なんか小さい看板があったような・・・
そこを行けばその奥の木立の中に「明治十年戦役薩軍本営跡」の碑があったんですよね
よくあることですが、またしても帰ってから知ったようなことです
そう、展望台の手前のところにあったこの説明板、先ほど気付きました^^;
教訓:説明板は現地でよく読みましょう!
そんなこととは露知らない熟年二人、他の観光客の流れに沿って展望台へ向かいました
ここは亜熱帯植物のツタやシダなどが何百種も自生する自然林だそうです
なんだか別世界にいるような感覚でした
ここを抜けるとまたまた今までと違う空気になりました
あは?っ、黄砂で桜島が霞んでるー!前日はきれいに見えたのに残念^^;
帰りの通路では結構な数の猫が餌をもらってがっついているところでした
<西郷隆盛洞窟>
さて城山の北側にある”岩崎谷”に下りていきます
西郷が官軍の総攻撃を受けるまで、最後の5日間を過ごした洞窟があります
木陰だからじゃなく、なんだかここもちょっと異様な空気
訪れる人は入れ替わり立ち替わりですが、長居をする人はいませんでした
しかし驚きました
洞窟というからにはもう少し奥行きがあるものかと思っていたからです
ね?穴ぐらでしょ
薩軍兵士残り300余り、全員ではないにしても
4万を超す官軍に追い込まれた西郷はここで何を思っていたのか
<西郷隆盛終焉の地>
5日を洞窟で過ごした西郷は、夜明けになおも岩崎谷を下りていく途中
流れ弾が大腿部を貫通します(本当に流れ弾なのか)
洞窟からわずか300mのところです
「晋どん、もうここいらでよか……」
西郷は別府晋介の介錯によって最後を迎えました
こうして、西郷の終焉とともに
”薩摩”の近代史を学ぶ熟年夫婦の街歩きもしんみりと終了です^^
でも、鹿児島で訪問したかったところがあと2ヶ所あるんですよ
さ、お次は肥後の国と切っても切れないところへごあんな?い♪
人も犬もばてるくらいの陽気でしたね^^
ラボも日影を選んで歩くような状況だったのですが
今朝気付くと、ぴょこたんぴょこたんと歩いてる
肉球見ても火傷や傷があるようには見えないし・・・
うーん、ちょっと、心配している熟年夫婦です
<鶴丸城址>
さあて、照国神社からまたまた歩いて「鶴丸城址」に向かいます
二の丸跡付近は水路と石垣が当時を思わせる雰囲気をただよわせています

街並みがとてもきれい^^
鯉がいたのですが、お腹が満足しているのか近づいてくれず逃げ回っていました
途中には、アコウが石垣に張り付いていたりしていました

さあ、大手門跡です
お堀には蓮の葉がたくさん浮かんでおり、古そうな石橋が迎えてくれました

石橋は当時のもので擬玉珠(ぎぼし)が付いているのが珍しいようです
有形文化財にはなっていないのかな?


「鶴丸城」は別名で、本来は「鹿児島城」と言います
鶴が翼を広げた形をしていたので「鶴丸城」と呼ばれていたとか
島津家の家紋が「鶴丸の紋」であったことによるとか言われているようですが
我々には「鶴丸城」のほうがなじみ深いですよね
慶長9年(1604年)に初代薩摩藩主・島津家久(忠恒)の命によって築城をし完成しましたが
海に近く「人をもって城となす」の考えで天守閣もない質素な平城でした
御楼門跡です

明治6年に城と共に焼失したということですが
門があったであろう場所は敷石が少し浮いた感じになっていて
横の石垣は後で押し込んだような雑な感じも見受けられました

石積みはいい雰囲気をかもし出していましたが
またしても写生集団に出くわし、写真はありません^^;
ここの石段を登ると鹿児島県歴史資料センター「黎明館(れいめいかん)」となっています

もちろん見学させてもらいました
なかなかよかったですよ!
3階まであるのでゆっくり見ていると日が暮れてしまうので、ざーっと見ました^^;
龍馬のミニミニコーナー(本当にちょこっとでした)はちゃんと見ましたよ
さて薩摩の歴史も少し勉強したところで
黎明館の東側にある歴史的なところにも立ち寄ってみました
薩摩義士碑や私学校跡



薩摩藩の繁栄を願わない幕府の政策手段のため
木曽川、長良川、揖斐川の3河川の治水の難工事にあたり
多くの犠牲をはらった薩摩義士達の碑にはなぜかとっちんは近づかず
明治6年、鹿児島に戻った西郷隆盛を慕ってついてきた者たちが多かったので
鶴丸城の厩跡に開設した学校がここにありました
ここで是非とも見たかったのがこの石垣なんです

そうです、西南戦争の銃弾跡です
西南戦争の発端はこの私学校にあるのですが
こうも激しい銃弾跡だとは思いもよりませんでした



<城山公園>
さて、ここからは西郷どんの最後の足跡をたどってみたいと思います
たいした距離を歩いたわけではないのですが、暑さに疲れ車で城山公園に登っていきました
西南戦争において撤退せざるをえなかった薩摩軍は
官軍の執拗な追撃に数々の困難を乗り越えて、標高107mの城山にたてこもります
売店の奥に「城山ドン広場」なるものがあったようです
そういえば、なんか小さい看板があったような・・・
そこを行けばその奥の木立の中に「明治十年戦役薩軍本営跡」の碑があったんですよね
よくあることですが、またしても帰ってから知ったようなことです
そう、展望台の手前のところにあったこの説明板、先ほど気付きました^^;
教訓:説明板は現地でよく読みましょう!

そんなこととは露知らない熟年二人、他の観光客の流れに沿って展望台へ向かいました
ここは亜熱帯植物のツタやシダなどが何百種も自生する自然林だそうです

なんだか別世界にいるような感覚でした
ここを抜けるとまたまた今までと違う空気になりました

あは?っ、黄砂で桜島が霞んでるー!前日はきれいに見えたのに残念^^;
帰りの通路では結構な数の猫が餌をもらってがっついているところでした

<西郷隆盛洞窟>
さて城山の北側にある”岩崎谷”に下りていきます
西郷が官軍の総攻撃を受けるまで、最後の5日間を過ごした洞窟があります

木陰だからじゃなく、なんだかここもちょっと異様な空気
訪れる人は入れ替わり立ち替わりですが、長居をする人はいませんでした


しかし驚きました
洞窟というからにはもう少し奥行きがあるものかと思っていたからです


ね?穴ぐらでしょ
薩軍兵士残り300余り、全員ではないにしても
4万を超す官軍に追い込まれた西郷はここで何を思っていたのか
<西郷隆盛終焉の地>
5日を洞窟で過ごした西郷は、夜明けになおも岩崎谷を下りていく途中
流れ弾が大腿部を貫通します(本当に流れ弾なのか)
洞窟からわずか300mのところです

「晋どん、もうここいらでよか……」
西郷は別府晋介の介錯によって最後を迎えました


こうして、西郷の終焉とともに
”薩摩”の近代史を学ぶ熟年夫婦の街歩きもしんみりと終了です^^
でも、鹿児島で訪問したかったところがあと2ヶ所あるんですよ
さ、お次は肥後の国と切っても切れないところへごあんな?い♪
<鶴丸城本丸跡 黎明館(れいめいかん)>
[所在地]鹿児島県鹿児島市城山町7-2
[電話] 099-222-5100
[開館時間] 午前9時?午後5時(入館は午後4時30分まで)
[休館日] 月曜日(国民の祝日の時は翌日)
毎月25日(土・日曜日の時は開館)
12月31日?1月2日
[入館料] 一般 300円 (団体 230円)
高・大生 190円 (団体 120円)
小・中生 120円 (団体 60円)
団体料金は20名以上から
[アクセス]地図はコチラ
<城山公園>
[所在地]鹿児島県鹿児島市城山町22
[アクセス]地図はコチラ
社会科見学かなにかの学生でごった返していた「維新ふるさと館」を出て
熟年夫婦はいつものように街歩きをすることにしました
城山付近には多くの観光スポットがあるので歩いてまわるとおもしろそうですよ^^
<西郷隆盛の銅像>
まずは「西郷隆盛の銅像」がある市立美術館へ
美術館には目もくれず、さっさと銅像のある国道10号線の通りに向かいます
おお、かなりデカイぞ!上野の西郷どんとはかなり違ってます
イカツイ感じがしますなあ^^;
薩摩の英雄を称える言葉が並べられていました
こちらはやはり観光客も多かったですよ
歩道橋を渡ると西郷銅像撮影広場なるところがありました
階段やカメラを置く台が備わっていて、銅像の大きさも示してあったのです
この広場では小学生や中学生が写生大会を行っていて、子供達がうようよしていました
何人かの絵を覗くと書いているのはコレでした
「中央公民館」なんですね?
この鹿児島市中央公民館は昭和2年、県下唯一の市立文化施設・鹿児島市公会堂として発足
現在でも催し物、講演会など多方面にわたって利用されているようです
平成17年に登録有形文化財に指定されていました
壁の表面や横側窓の形や模様がおもしろかったです
窓はイスラム風尖頭アーチというもののようです
<小松帯刀の銅像>
その広場の南端にお目当ての銅像がありますよ
「小松帯刀の銅像」です
ここでは入来から来たという中学生が小松帯刀の勉強をしていました
きりっとした顔で「大政を奉還すべき」と記帳しているんですね
「しっかり勉強してくれよ!」
ここから中央公園の中に入ると、またしても小中学生が写生で多かったものの
こんなほのぼのする光景にしばし足を止めて見入っていました
でも、少し暑すぎやしませんか?
脱水状態にならないよう気をつけてくださいよ、パパさん^^
と、熟年はつぶやいたのでした
中央公園の端っこには「造士館、演武館跡」と「医学院跡」の石碑があります
1773年(安永2年)島津家25代当主(薩摩藩8代藩主)の島津重豪(しまづしげひで)が
有能な人材を育成するため、藩校・造士館や演武館を設立し教育の普及に努めました
その一年後には医学院を設立し、医療技術の養成にも尽力
多くの医学生が学び、医療の発展にも貢献しました
その後、天文観測や暦の作成などを行う明時館を建てました
これが天文館の由来となったと言われる場所にあるわけです
まさに文武両道以上を目指していたんですね
ここから北に歩いていると、また写生の集団に会いました
<県立博物館考古学資料館>
こちらは「県立博物館考古学資料館」です
明治に竣工されたものが戦災で焼失し、昭和26年に再建されたものです
こちらも平成10年に登録有形文化財に指定されていますが
現在立ち入り禁止になっていました
その建物の前にはなにやら大きなソテツがあり
「世界で初めて精子が見つかった」と書いてありました
”生きた化石”ね、ほほう?^^
<照国神社>
「照国神社」が見えてきましたよ?
島津家28代当主、11代藩主の島津齊彬(しまづなりあきら)公が祀ってあります
わずか?8年足らずの在位ではありましたが
薩摩藩のみならず、国にとっての偉業に多くの人々から崇敬され、この照国神社が創建されました
入って最初に目に付くのが「斉鶴(さいかく)」
斉彬公の名にあやかりイヌマキを鶴の形に仕上げてあるようです
神門や拝殿には島津家の丸十の家紋と菊の紋が入っておりました
それにしても写生の中学生はたくさんいたのに、観光客はいなかったなあ
ささ、境内の途中から脇に出て行きます
ここからは銅像のオンパレード^^
鹿児島って本当に銅像の多いところだな
照国神社本殿の真横に当たるところにあるのは
「島津斉彬銅像」

ううーん、渋い顔つきです
なかなかイケメンでは?って尚古集成館で見た顔とちと違うし・・
神社の東側にある「探勝園」の一番奥にあるのは
斉彬弟の「島津久光銅像」
こちらの方が池に囲まれていて待遇が良いように感じました
藩主にならなかったにせよ、斉彬亡き後、若い忠義の実父として藩をまとめ
最高権力者として倒幕に奔走して行きます
そういう意味ではやはり銅像になる理由もあるというもの
でも西郷どんとは仲が悪かったらしいですね
そのせいか、気難しそうに見えます
そして、公園を入ってすぐの所に建っているのが
久光の長男で斉彬の後を継いだ「島津忠義銅像」
忠義は明治になってからも長く洋服姿でありながら髷を切らずにいたとか
父、久光の方針にあった旧習に従ったためと言われていますが
久光と違ってコレといった活躍は伺えませんが、銅像にはなりました^^
帽子が邪魔で顔がよく見えませんでした
なんとなくひ弱な感じがしなくもありません
探勝園とは鶴丸城の二の丸庭園であったところなんですよ
それでは、その鶴丸城址に行ってみましょうかね♪
熟年夫婦はいつものように街歩きをすることにしました
城山付近には多くの観光スポットがあるので歩いてまわるとおもしろそうですよ^^
<西郷隆盛の銅像>
まずは「西郷隆盛の銅像」がある市立美術館へ
美術館には目もくれず、さっさと銅像のある国道10号線の通りに向かいます


おお、かなりデカイぞ!上野の西郷どんとはかなり違ってます
イカツイ感じがしますなあ^^;
薩摩の英雄を称える言葉が並べられていました
こちらはやはり観光客も多かったですよ
歩道橋を渡ると西郷銅像撮影広場なるところがありました
階段やカメラを置く台が備わっていて、銅像の大きさも示してあったのです



この広場では小学生や中学生が写生大会を行っていて、子供達がうようよしていました
何人かの絵を覗くと書いているのはコレでした

「中央公民館」なんですね?
この鹿児島市中央公民館は昭和2年、県下唯一の市立文化施設・鹿児島市公会堂として発足
現在でも催し物、講演会など多方面にわたって利用されているようです


平成17年に登録有形文化財に指定されていました
壁の表面や横側窓の形や模様がおもしろかったです
窓はイスラム風尖頭アーチというもののようです
<小松帯刀の銅像>
その広場の南端にお目当ての銅像がありますよ
「小松帯刀の銅像」です




ここでは入来から来たという中学生が小松帯刀の勉強をしていました
きりっとした顔で「大政を奉還すべき」と記帳しているんですね
「しっかり勉強してくれよ!」

ここから中央公園の中に入ると、またしても小中学生が写生で多かったものの
こんなほのぼのする光景にしばし足を止めて見入っていました

でも、少し暑すぎやしませんか?
脱水状態にならないよう気をつけてくださいよ、パパさん^^
と、熟年はつぶやいたのでした
中央公園の端っこには「造士館、演武館跡」と「医学院跡」の石碑があります


1773年(安永2年)島津家25代当主(薩摩藩8代藩主)の島津重豪(しまづしげひで)が
有能な人材を育成するため、藩校・造士館や演武館を設立し教育の普及に努めました
その一年後には医学院を設立し、医療技術の養成にも尽力
多くの医学生が学び、医療の発展にも貢献しました
その後、天文観測や暦の作成などを行う明時館を建てました
これが天文館の由来となったと言われる場所にあるわけです
まさに文武両道以上を目指していたんですね
ここから北に歩いていると、また写生の集団に会いました
<県立博物館考古学資料館>

こちらは「県立博物館考古学資料館」です
明治に竣工されたものが戦災で焼失し、昭和26年に再建されたものです
こちらも平成10年に登録有形文化財に指定されていますが
現在立ち入り禁止になっていました


その建物の前にはなにやら大きなソテツがあり
「世界で初めて精子が見つかった」と書いてありました
”生きた化石”ね、ほほう?^^


<照国神社>
「照国神社」が見えてきましたよ?

島津家28代当主、11代藩主の島津齊彬(しまづなりあきら)公が祀ってあります
わずか?8年足らずの在位ではありましたが
薩摩藩のみならず、国にとっての偉業に多くの人々から崇敬され、この照国神社が創建されました


入って最初に目に付くのが「斉鶴(さいかく)」
斉彬公の名にあやかりイヌマキを鶴の形に仕上げてあるようです

神門や拝殿には島津家の丸十の家紋と菊の紋が入っておりました



それにしても写生の中学生はたくさんいたのに、観光客はいなかったなあ

ささ、境内の途中から脇に出て行きます
ここからは銅像のオンパレード^^
鹿児島って本当に銅像の多いところだな
照国神社本殿の真横に当たるところにあるのは
「島津斉彬銅像」


ううーん、渋い顔つきです
なかなかイケメンでは?って尚古集成館で見た顔とちと違うし・・
神社の東側にある「探勝園」の一番奥にあるのは
斉彬弟の「島津久光銅像」



こちらの方が池に囲まれていて待遇が良いように感じました
藩主にならなかったにせよ、斉彬亡き後、若い忠義の実父として藩をまとめ
最高権力者として倒幕に奔走して行きます
そういう意味ではやはり銅像になる理由もあるというもの
でも西郷どんとは仲が悪かったらしいですね
そのせいか、気難しそうに見えます
そして、公園を入ってすぐの所に建っているのが
久光の長男で斉彬の後を継いだ「島津忠義銅像」



忠義は明治になってからも長く洋服姿でありながら髷を切らずにいたとか
父、久光の方針にあった旧習に従ったためと言われていますが
久光と違ってコレといった活躍は伺えませんが、銅像にはなりました^^
帽子が邪魔で顔がよく見えませんでした
なんとなくひ弱な感じがしなくもありません
探勝園とは鶴丸城の二の丸庭園であったところなんですよ
それでは、その鶴丸城址に行ってみましょうかね♪
<照国神社(てるくにじんじゃ)>
[所在地]鹿児島県鹿児島市照国町19-35
[電話] 099-222-1820
[受付時間] 8:30?17:00
[アクセス]地図はコチラ
薩摩探訪2日目は
薩摩藩の家老で、土佐の龍馬、長州の井上馨と伊藤博文、薩摩の五代友厚など
開国派の志士達を支援した「小松帯刀屋敷跡」から参りましょうか
<小松帯刀邸跡>
小松帯刀(たてわき)は、若くして薩摩藩家老となり、西郷隆盛や大久保利通といった
薩摩の志士の活躍を藩の家老という立場で支えた人物です
坂本龍馬との親交も深く、寺田屋事件の後、西郷隆盛らとともに龍馬をかくまい
薩摩に渡る手はずを整え、自分の別邸に泊めたほか、亀山社中の創設も支援しました
坂本龍馬の新政府の人事構想では、西郷、大久保、桂らを抑えて
筆頭に挙げられていたそうです
結構、分かりづらい場所にありました
とにかく当たりを付けて、「小松帯刀屋敷跡」と書かれた青色の看板を見つけることです
左の狭い路地を入りますが車では入らない方が賢明です
路地の入口で休診だった歯科医院さんに車を駐めさせてもらって、急ぎ足で向かいました
この屋敷跡の石垣だけ見ても、やはりただ者ではなかったと思いますよね
こちらが邸宅跡です
龍馬とお龍は霧島での新婚旅行の後、この帯刀の屋敷で50日も過ごしたそうです
現在も住人がおられるようなので、庭をこそっと一枚だけ^^
撮るだけ撮ったら、ご迷惑にならないうちにとっとと失礼いたしましょう^^
<西郷南洲翁宅地跡>
次に向かったのが、「西郷南洲翁宅地跡」です
共研公園の入口に石碑はありました
坂本龍馬は、1865年に薩摩を訪れた際、西郷隆盛の屋敷にも泊まりました
石碑は真新しい感じ、最近建てられたのかな
これらの史跡に共通していることは駐車場がないということ
とっちんを助手席に残して、急いで撮影だけ
ゆっくり案内板を読んでいる暇はありません、いつものことか^^;
<西郷隆盛誕生地>
甲突川に面した北側一帯は、西郷隆盛、大久保利通など
多くの偉人が生まれ育った加治屋町です
上級藩士は鶴丸城周辺、下級藩士はこの甲突川辺りに多く住んでいたということです
西郷隆盛もこの地で、下級武士の家の7人兄弟の長男として生まれました
<大久保利通生い立ちの地>
西郷隆盛の誕生地のすぐそばに
西郷と幼なじみだったという「大久保利通の生い立ちの地」はあります
三歳年上の西郷と大久保は郷中教育の中で兄弟以上の信頼で結ばれていました
<大久保利通の銅像>
銅像も近くにあります
大久保利通は、島津久光の信頼を得て、藩政の改革にも手腕をふるい
薩英戦争後はイギリスとの講和をまとめました
明治維新後は、政界の中心人物として版籍奉還、廃藩置県の実現に努め内務省を設立し
事実上の首相ともいうべき内務卿を兼務した薩摩の偉人です
しかし、薩摩のヒーローである西郷隆盛と最後は敵対することになった大久保利通を
鹿児島県民は受け入れ難かったのか
西郷隆盛の銅像は昭和12年(1937年)に建てられていますが
大久保の銅像は没後100年を記念して、昭和54年9月26日にようやく設置されています
<維新ふるさと館>
このような幕末や維新の歴史や薩摩の偉人達を様々な角度から分かりやすく紹介した
「維新ふるさと館」が加治屋町にあります
それでは、歴史の階段を戻ってみましょうか
日の丸を日本の船の総船印にしようと薩摩藩主斉彬が提案したのは知っていましたが
君が代の原曲も薩摩にありました
歌詞は古今集が大もとですが、薩摩ではサムライ踊り等の歌詞として使われていたものを
英国人フェントンに作曲してもらったということです
日本最初の君が代は、明るいマーチ系のゆっくりした曲でした
西郷と大久保を比べた資料もありました
どちらも大男じゃ^^
先を急ぐので、じっくり見られないのが惜しかったですが
子供達にも分かりやすくといった工夫が至るところに施されていましたよ
さてお次は、お城方面です^^
薩摩藩の家老で、土佐の龍馬、長州の井上馨と伊藤博文、薩摩の五代友厚など
開国派の志士達を支援した「小松帯刀屋敷跡」から参りましょうか
<小松帯刀邸跡>
小松帯刀(たてわき)は、若くして薩摩藩家老となり、西郷隆盛や大久保利通といった
薩摩の志士の活躍を藩の家老という立場で支えた人物です
坂本龍馬との親交も深く、寺田屋事件の後、西郷隆盛らとともに龍馬をかくまい
薩摩に渡る手はずを整え、自分の別邸に泊めたほか、亀山社中の創設も支援しました
坂本龍馬の新政府の人事構想では、西郷、大久保、桂らを抑えて
筆頭に挙げられていたそうです
結構、分かりづらい場所にありました
とにかく当たりを付けて、「小松帯刀屋敷跡」と書かれた青色の看板を見つけることです
左の狭い路地を入りますが車では入らない方が賢明です
路地の入口で休診だった歯科医院さんに車を駐めさせてもらって、急ぎ足で向かいました
この屋敷跡の石垣だけ見ても、やはりただ者ではなかったと思いますよね



こちらが邸宅跡です

龍馬とお龍は霧島での新婚旅行の後、この帯刀の屋敷で50日も過ごしたそうです

現在も住人がおられるようなので、庭をこそっと一枚だけ^^
撮るだけ撮ったら、ご迷惑にならないうちにとっとと失礼いたしましょう^^
<西郷南洲翁宅地跡>
次に向かったのが、「西郷南洲翁宅地跡」です
共研公園の入口に石碑はありました

坂本龍馬は、1865年に薩摩を訪れた際、西郷隆盛の屋敷にも泊まりました
石碑は真新しい感じ、最近建てられたのかな




これらの史跡に共通していることは駐車場がないということ
とっちんを助手席に残して、急いで撮影だけ
ゆっくり案内板を読んでいる暇はありません、いつものことか^^;
<西郷隆盛誕生地>
甲突川に面した北側一帯は、西郷隆盛、大久保利通など
多くの偉人が生まれ育った加治屋町です
上級藩士は鶴丸城周辺、下級藩士はこの甲突川辺りに多く住んでいたということです
西郷隆盛もこの地で、下級武士の家の7人兄弟の長男として生まれました




<大久保利通生い立ちの地>
西郷隆盛の誕生地のすぐそばに
西郷と幼なじみだったという「大久保利通の生い立ちの地」はあります
三歳年上の西郷と大久保は郷中教育の中で兄弟以上の信頼で結ばれていました



<大久保利通の銅像>
銅像も近くにあります

大久保利通は、島津久光の信頼を得て、藩政の改革にも手腕をふるい
薩英戦争後はイギリスとの講和をまとめました
明治維新後は、政界の中心人物として版籍奉還、廃藩置県の実現に努め内務省を設立し
事実上の首相ともいうべき内務卿を兼務した薩摩の偉人です


しかし、薩摩のヒーローである西郷隆盛と最後は敵対することになった大久保利通を
鹿児島県民は受け入れ難かったのか
西郷隆盛の銅像は昭和12年(1937年)に建てられていますが
大久保の銅像は没後100年を記念して、昭和54年9月26日にようやく設置されています
<維新ふるさと館>
このような幕末や維新の歴史や薩摩の偉人達を様々な角度から分かりやすく紹介した
「維新ふるさと館」が加治屋町にあります

それでは、歴史の階段を戻ってみましょうか

日の丸を日本の船の総船印にしようと薩摩藩主斉彬が提案したのは知っていましたが
君が代の原曲も薩摩にありました
歌詞は古今集が大もとですが、薩摩ではサムライ踊り等の歌詞として使われていたものを
英国人フェントンに作曲してもらったということです
日本最初の君が代は、明るいマーチ系のゆっくりした曲でした
西郷と大久保を比べた資料もありました
どちらも大男じゃ^^



先を急ぐので、じっくり見られないのが惜しかったですが
子供達にも分かりやすくといった工夫が至るところに施されていましたよ
さてお次は、お城方面です^^
<小松帯刀邸跡>
[アクセス]地図はコチラ
<西郷南洲翁宅地跡>
[アクセス]地図はコチラ
<大久保利通の銅像>
[アクセス]地図はコチラ
<維新ふるさと館>
[所在地]鹿児島県鹿児島市加治屋町23番1号
[電話] 099-239-7700
[開館時間] 午前9時?午後5時(入館は午後4時30分まで)
[休館] 年中無休
[料金] 大人(高校生以上)300円(団体は240円)
子供(小・中学生)150円(団体は120円)
[アクセス]地図はコチラ
テーマ:歴史・文化にふれる旅 - ジャンル:旅行
去年のように、車中泊も考えましたが身体がギシギシ悲鳴を上げるので
今回は市内のビジネスホテルを予約しました
市内に入って目を引いたのが、この電車軌道敷の緑の絨毯♪

確か熊本でも計画されていますよね
市街地では貴重な緑ってことでしょうが、水等の維持管理が大変そう^^;
さて、ホテルに着いてから、ネットで見つけたのが天文館の居酒屋「エビス」さんです
さつまの郷土料理を売りにしていて、県外のお客さんも多いとのこと
真っ直ぐに店まで到着
店舗前の写真は撮り忘れ^^
店内はエビスという名前だけあって、至る所にエビスだらけ^^
もちろん生ビールもエビスですね
お通しが冷たい温泉卵とは嬉しい♪

さ?てと、何にする?^^
やはり、薩摩の郷土料理を寄せ集めた「さつま料理定食」ははずせません♪
並べてみましょうか^^
きびなご刺身
トンコツ
さつま鶏の刺身
ニガゴイ
バイ酢
さつま揚げ
これが揚げたての熱々が絶品でした♪
こんな俵型のさつま揚げって見たことありません
平ぺったいのが普通かと思ってました
これだけを食べにもう一度来てもいいくらい^^
この外に、さつま汁とご飯がついて、3000円でした^^
とっちんが野菜切れを起こしていたので野菜サラダを注文!
でもいくら野菜が高いからって、これで800円とはちょっと驚いちゃいました!

女将さんが「どちらから」と聞かれたので「熊本です」
と答えると、鹿児島観光スポットのポストカードをくれました
県外客にあげているのでしょう^^
さつまの味を堪能して、満面にえびす顔の熟年でした
明日はこの方の邸宅から廻りましょうかね^^
いづろ交差点の石灯籠の脇を抜けて千鳥足で帰っていった二人でしたとさ^^
市内に入って目を引いたのが、この電車軌道敷の緑の絨毯♪

確か熊本でも計画されていますよね
市街地では貴重な緑ってことでしょうが、水等の維持管理が大変そう^^;
さて、ホテルに着いてから、ネットで見つけたのが天文館の居酒屋「エビス」さんです
さつまの郷土料理を売りにしていて、県外のお客さんも多いとのこと
真っ直ぐに店まで到着
店舗前の写真は撮り忘れ^^

店内はエビスという名前だけあって、至る所にエビスだらけ^^
もちろん生ビールもエビスですね



お通しが冷たい温泉卵とは嬉しい♪

さ?てと、何にする?^^

やはり、薩摩の郷土料理を寄せ集めた「さつま料理定食」ははずせません♪
並べてみましょうか^^
きびなご刺身

トンコツ

さつま鶏の刺身

ニガゴイ

バイ酢

さつま揚げ
これが揚げたての熱々が絶品でした♪
こんな俵型のさつま揚げって見たことありません
平ぺったいのが普通かと思ってました
これだけを食べにもう一度来てもいいくらい^^

この外に、さつま汁とご飯がついて、3000円でした^^
とっちんが野菜切れを起こしていたので野菜サラダを注文!
でもいくら野菜が高いからって、これで800円とはちょっと驚いちゃいました!



女将さんが「どちらから」と聞かれたので「熊本です」
と答えると、鹿児島観光スポットのポストカードをくれました
県外客にあげているのでしょう^^
さつまの味を堪能して、満面にえびす顔の熟年でした
明日はこの方の邸宅から廻りましょうかね^^

いづろ交差点の石灯籠の脇を抜けて千鳥足で帰っていった二人でしたとさ^^

<さつま料理 エビス>
[電話]099-226-4520
[住所]鹿児島県鹿児島市千日町6-1フラワービルB1
[定休日]日曜日
[アクセス]地図はコチラ
今日はこどもの日
いよいよGWも終わりですね、最後までいい天気でした
明日からの仕事に備えて頭を切り換えなくっちゃ^^

さてさて、霧島から下って薩摩藩のお膝元へ参りましたよ
「尚古集成館」と「仙巌園(せんがんえん)」です
以前2回程来たことはありますが、歴史にも史跡にも興味がないファミリーの頃だったので
あまり覚えていません
まっ、今でも島津藩主の名前はなかなか覚えられないんですけど^^
<鶴嶺神社>
この神社は駐車場のすぐ脇にあります
島津氏の初代藩主忠久以降、歴代当主が祀られています
その割には、豪華絢爛さはなく、拝殿は壁もない質素な佇まいでした
<尚古集成館>
幕末、薩摩藩主島津斉彬は、西欧諸国のアジア進出に対応し、軍事のみならず産業の育成を進め、富国強兵を真っ先に実践しました。それら事業の中心となったのが、磯に建てられた工場群「集成館」です。その地に慶応元(1865)年に竣工した機械工場は、重要文化財となっており、現在内部は島津家の歴史・文化と集成館事業を語り継ぐ博物館「尚古集成館」として親しまれています。(HPより)
館内で入口で薩摩藩主歴代の正統系図を10円で買って
勉強してきましたよ、はい!
これ以降は、園内の施設や史跡を簡潔に紹介します
読み飛ばすも、説明文をじっくり読むもご自由です
それでは、とっとと参りましょう^^
<溶鉱炉跡>
鶴嶺神社の敷地内にあった我が国初の溶鉱炉です
あびの産の鉄鉱石、志布志・頴娃産の海砂鉄を原料に鉄を生産したそうです
<反射炉跡>
反射炉は鉄製の大砲を鋳造するために築かれ、安政3年(1856)に鉄製砲の鋳造に成功しました
生麦事件に端を発した文久3年(1863)の薩英戦争では、ここで造られた大砲が大活躍しましたが
現在は、基礎部分だけが残されています
この下は狭い通路になってたんですが、とっちんが入っていくんですよ
真っ暗で何もわからんかったと入口とは違う出口から出てきました
高所恐怖症ですが、閉所恐怖症ではないみたいです^^
<昇平丸>
斉彬の提案で、昇平丸には外国船と区別するために日の丸の幟が掲げられました
これが後の明治政府に採用され、国旗へと制定されるきっかけとなりました
<正門>
29代藩主島津忠義が、明治28年(1895年)に建てさたもので
用材は裏山の樟を使い、島津家の家紋である丸十と五七の桐が掘り込まれている
とのことですが、わかりませんでした^^
篤姫では、摩藩邸江戸屋敷に見立てられロケが行われました
<千尋巌>
案内板の矢印の方へ振り返ったら、あんな遠くの岩場に字が彫ってありますよ
知らんかったなぁ
27代藩主斉興が命じたもので、中国文化の影響ではと言われています
<望嶽楼>
琉球の国王から献上されたもので、琉球使節と面接する場として使われたそうです
あれっ、特徴的な所は床ですと!
見とらんし^^;
<錫門>
錫瓦葺きの建物としては我が国唯一で嘉永元(1848)年の庭地拡張までは
仙巌園の正門として使用されていました
<庭園>
これこそ、島津藩主が愛した眺めでしょうか
なにやら幟が桜島をバックにためいていますね
この時期は島津家の端午の節句が再現されていたのです
一番奥の丸十の幟は長男だけのものだそうです
この辺一帯には、歴史を感じさせる近代化史跡が外にもあります
ちょっと、園の外を歩いてみました
<磯工芸館>
薩摩切子ショップになっています
<磯くわはら館>
旧芹ヶ野島津家金山鉱業事業所で登録文化財となっています
<旧鹿児島紡績所技師館 異人館>
異人館は鹿児島紡績所で指導をしていたイギリス尋技師の宿舎で
重要文化財に登録されています
とっちんが一番見たくて、うろうろしてしまいましたが
ようやく見つけた建物は、なんと耐震工事中でした、残念!
遠目で一枚♪
オランダやイギリスの列強を驚かせ、龍馬も見学したという
28代藩主斉彬を中心とした島津家の富国強兵・殖産興業政策が
日本を明治維新へ導く大きな原動力となったことを肌で感じました
それでは鹿児島の夜へとつ・づ・く♪

いよいよGWも終わりですね、最後までいい天気でした
明日からの仕事に備えて頭を切り換えなくっちゃ^^

さてさて、霧島から下って薩摩藩のお膝元へ参りましたよ
「尚古集成館」と「仙巌園(せんがんえん)」です
以前2回程来たことはありますが、歴史にも史跡にも興味がないファミリーの頃だったので
あまり覚えていません
まっ、今でも島津藩主の名前はなかなか覚えられないんですけど^^
<鶴嶺神社>
この神社は駐車場のすぐ脇にあります
島津氏の初代藩主忠久以降、歴代当主が祀られています
その割には、豪華絢爛さはなく、拝殿は壁もない質素な佇まいでした



<尚古集成館>
幕末、薩摩藩主島津斉彬は、西欧諸国のアジア進出に対応し、軍事のみならず産業の育成を進め、富国強兵を真っ先に実践しました。それら事業の中心となったのが、磯に建てられた工場群「集成館」です。その地に慶応元(1865)年に竣工した機械工場は、重要文化財となっており、現在内部は島津家の歴史・文化と集成館事業を語り継ぐ博物館「尚古集成館」として親しまれています。(HPより)



館内で入口で薩摩藩主歴代の正統系図を10円で買って
勉強してきましたよ、はい!
これ以降は、園内の施設や史跡を簡潔に紹介します
読み飛ばすも、説明文をじっくり読むもご自由です
それでは、とっとと参りましょう^^
<溶鉱炉跡>
鶴嶺神社の敷地内にあった我が国初の溶鉱炉です
あびの産の鉄鉱石、志布志・頴娃産の海砂鉄を原料に鉄を生産したそうです


<反射炉跡>
反射炉は鉄製の大砲を鋳造するために築かれ、安政3年(1856)に鉄製砲の鋳造に成功しました
生麦事件に端を発した文久3年(1863)の薩英戦争では、ここで造られた大砲が大活躍しましたが
現在は、基礎部分だけが残されています

この下は狭い通路になってたんですが、とっちんが入っていくんですよ
真っ暗で何もわからんかったと入口とは違う出口から出てきました
高所恐怖症ですが、閉所恐怖症ではないみたいです^^




<昇平丸>
斉彬の提案で、昇平丸には外国船と区別するために日の丸の幟が掲げられました
これが後の明治政府に採用され、国旗へと制定されるきっかけとなりました


<正門>
29代藩主島津忠義が、明治28年(1895年)に建てさたもので
用材は裏山の樟を使い、島津家の家紋である丸十と五七の桐が掘り込まれている
とのことですが、わかりませんでした^^
篤姫では、摩藩邸江戸屋敷に見立てられロケが行われました


<千尋巌>
案内板の矢印の方へ振り返ったら、あんな遠くの岩場に字が彫ってありますよ
知らんかったなぁ
27代藩主斉興が命じたもので、中国文化の影響ではと言われています


<望嶽楼>
琉球の国王から献上されたもので、琉球使節と面接する場として使われたそうです
あれっ、特徴的な所は床ですと!
見とらんし^^;


<錫門>
錫瓦葺きの建物としては我が国唯一で嘉永元(1848)年の庭地拡張までは
仙巌園の正門として使用されていました


<庭園>
これこそ、島津藩主が愛した眺めでしょうか

なにやら幟が桜島をバックにためいていますね
この時期は島津家の端午の節句が再現されていたのです
一番奥の丸十の幟は長男だけのものだそうです


この辺一帯には、歴史を感じさせる近代化史跡が外にもあります
ちょっと、園の外を歩いてみました
<磯工芸館>
薩摩切子ショップになっています

<磯くわはら館>
旧芹ヶ野島津家金山鉱業事業所で登録文化財となっています

<旧鹿児島紡績所技師館 異人館>
異人館は鹿児島紡績所で指導をしていたイギリス尋技師の宿舎で
重要文化財に登録されています
とっちんが一番見たくて、うろうろしてしまいましたが
ようやく見つけた建物は、なんと耐震工事中でした、残念!
遠目で一枚♪

オランダやイギリスの列強を驚かせ、龍馬も見学したという
28代藩主斉彬を中心とした島津家の富国強兵・殖産興業政策が
日本を明治維新へ導く大きな原動力となったことを肌で感じました
それでは鹿児島の夜へとつ・づ・く♪
<仙巌園(センガンエン)>
[所在地]鹿児島県鹿児島市吉野町磯9700-1
[電話]099-247-1551
[休園]年中無休
[料金]大人:庭園コース1000円、御殿コース1500円、子供:500円
[アクセス]地図はコチラ
テーマ:歴史・文化にふれる旅 - ジャンル:旅行
今日も暑かったですね
一日中、家でまったり、本読んだり、記事書いてました
あっ、そういえば近所のエコ住宅が完成しまして
今日、御家族であいさつにこられました
こちらこそ、よろしくお願いします
分からない時は何でも隣保組長へどうぞ、と
とっちんが言ってました^^
<塩浸温泉>
次に向かったのは、犬飼の滝から少し北に入った
国道223号線沿いにある「塩浸(しおひたし)温泉」です
龍馬が霧島の旅のなかで最も長く18日間も過ごした所で
傷に効果のある温泉として知られている温泉です
乙女への手紙から抜粋(読みやすくしています)
此所に十日ばかり止まりあそび、谷川の流にてうおをつり、短筒をもちて鳥をうちなど、
まことにおもしろかりし。
こちらも、道路脇に10台程停められる駐車場がありますが、一杯みたいですね
一番端になんとか停めることはできましたが
あれあれっ、なんだか工事中ではないですか
この看板も今まさに設置されているようです
5月1日オープンのようですが、GWに間に合わせなければいかんでしょ
有名な龍馬とお龍の湯治碑は対岸に見えますが
よく見たら、橋の入り口に関係者以外、立ち入り禁止!
なにやら建物(共同浴場と資料館)が、まだ最後の仕上げという感じですが
まあ、碑とは反対側なので、ささっと写真だけ撮りに行きましょう
龍馬の顔はちょっと違う気もしますが
お龍の龍馬を見あげる姿がいいではないですか
と、こちらに歩み寄る女性が、「立ち入り禁止なんですが・・」
「あっ、すみません」とは、言いつつも何か納得できない
工事している方とは逆側だし、そこだって重機が動いているわけじゃない
龍馬達が来たという山側の道を整備しているだけです
むしろ、この碑のある所へは、観光客のために
いつでも行けるようにしなくちゃいかんでしょ
なんだかな?、熟年二人は、気持ちがすっきりしないまま、橋を戻ろうとすると
川岸に小さな露天風呂が見えます
あれが龍馬とお龍が浸かった塩浸温泉のようです
んが、人の手が入りすぎているため、何とも味気ないものになっていませんか
護岸の石積みも整然としすぎでは・・・というか、ここまで触ってはいけないでしょう
先ほどの一件で、えらい辛口です^^;
腹がたったら、お腹が空いてきたので
近くの、「きのこの里」で手打ち蕎麦を頂くことにしました
注文は、「ざるそば大盛り」と「冷やしきのこそば」^^
なんと使われていたのは熊本産の蕎麦粉でしたよ
蕎麦は冷たいに限る、とても美味しかったです♪
<日向山温泉>
次に向かったのが、国道223号線沿いにある「日向山(ひなたやま)温泉」です
幕末から明治初期に、温泉好きで有名な西郷隆盛が頻繁に訪れたという宿だとのこと
狭い路地を走らせていると、壁に描かれたこんな大きな絵を発見!
こちらは西郷どん温泉旅館ですが、こんな龍馬の絵もありましたよ^^
そして、旅館前が公衆温泉のようです
こちらの壁にはおっと消えかかって見えづらいですが
七転び八起きと書かれていますね
何とも、親近感のわく温泉だこと^^
<天保山公園>
最後に、市内は天保山公園にある二人の碑をめざします
天保山公園には、龍馬とお龍が、西郷隆盛や小松帯刀とともに
この地に上陸したのを記念して建てられた「坂本龍馬新婚の旅碑」があります
この龍馬達の銅像は公園内ではなく、市民の散歩コースのような川の畔にありました
ここでも、お龍が龍馬を見上げています
お龍のこの瞳がよいではありませんか
龍馬といえば、この山のようにいつでも燃えたぎっちょるぜよ
とでも言いたげに桜島をじっと見つめていました
頭に留まった雀を追い払うこともせず(笑)
これで、「龍馬とお龍の日本初の新婚旅行」の追っかけは終了です^^
彼らのこの旅は1866年3月16日?4月12日、のこと
龍馬にとって、自然の中で遊び、地元の人情に触れ、お湯に浸り
人生の中で、最もゆっくりと過ごした平和な日々だったことでしょう
しかし、この翌年、刺客に襲われ、享年33歳の若さで命を落とします
日本の維新を見ることなく・・・
もし彼が生きていたら、今の日本はどう変わっていたでしょう
西南戦争は、西郷隆盛を説き伏せて、たぶん起きなかったのではなかろうか
それでは、薩摩藩のお膝元へ参りましょうか
いざいざ^^
一日中、家でまったり、本読んだり、記事書いてました
あっ、そういえば近所のエコ住宅が完成しまして
今日、御家族であいさつにこられました
こちらこそ、よろしくお願いします
分からない時は何でも隣保組長へどうぞ、と
とっちんが言ってました^^
<塩浸温泉>
次に向かったのは、犬飼の滝から少し北に入った
国道223号線沿いにある「塩浸(しおひたし)温泉」です
龍馬が霧島の旅のなかで最も長く18日間も過ごした所で
傷に効果のある温泉として知られている温泉です
乙女への手紙から抜粋(読みやすくしています)
此所に十日ばかり止まりあそび、谷川の流にてうおをつり、短筒をもちて鳥をうちなど、
まことにおもしろかりし。
こちらも、道路脇に10台程停められる駐車場がありますが、一杯みたいですね
一番端になんとか停めることはできましたが
あれあれっ、なんだか工事中ではないですか
この看板も今まさに設置されているようです
5月1日オープンのようですが、GWに間に合わせなければいかんでしょ

有名な龍馬とお龍の湯治碑は対岸に見えますが
よく見たら、橋の入り口に関係者以外、立ち入り禁止!
なにやら建物(共同浴場と資料館)が、まだ最後の仕上げという感じですが
まあ、碑とは反対側なので、ささっと写真だけ撮りに行きましょう

龍馬の顔はちょっと違う気もしますが
お龍の龍馬を見あげる姿がいいではないですか


と、こちらに歩み寄る女性が、「立ち入り禁止なんですが・・」
「あっ、すみません」とは、言いつつも何か納得できない
工事している方とは逆側だし、そこだって重機が動いているわけじゃない
龍馬達が来たという山側の道を整備しているだけです
むしろ、この碑のある所へは、観光客のために
いつでも行けるようにしなくちゃいかんでしょ
なんだかな?、熟年二人は、気持ちがすっきりしないまま、橋を戻ろうとすると
川岸に小さな露天風呂が見えます

あれが龍馬とお龍が浸かった塩浸温泉のようです
んが、人の手が入りすぎているため、何とも味気ないものになっていませんか

護岸の石積みも整然としすぎでは・・・というか、ここまで触ってはいけないでしょう
先ほどの一件で、えらい辛口です^^;
腹がたったら、お腹が空いてきたので
近くの、「きのこの里」で手打ち蕎麦を頂くことにしました
注文は、「ざるそば大盛り」と「冷やしきのこそば」^^



なんと使われていたのは熊本産の蕎麦粉でしたよ
蕎麦は冷たいに限る、とても美味しかったです♪
<日向山温泉>
次に向かったのが、国道223号線沿いにある「日向山(ひなたやま)温泉」です
幕末から明治初期に、温泉好きで有名な西郷隆盛が頻繁に訪れたという宿だとのこと
狭い路地を走らせていると、壁に描かれたこんな大きな絵を発見!

こちらは西郷どん温泉旅館ですが、こんな龍馬の絵もありましたよ^^


そして、旅館前が公衆温泉のようです
こちらの壁にはおっと消えかかって見えづらいですが
七転び八起きと書かれていますね
何とも、親近感のわく温泉だこと^^


<天保山公園>
最後に、市内は天保山公園にある二人の碑をめざします
天保山公園には、龍馬とお龍が、西郷隆盛や小松帯刀とともに
この地に上陸したのを記念して建てられた「坂本龍馬新婚の旅碑」があります
この龍馬達の銅像は公園内ではなく、市民の散歩コースのような川の畔にありました



ここでも、お龍が龍馬を見上げています

お龍のこの瞳がよいではありませんか


龍馬といえば、この山のようにいつでも燃えたぎっちょるぜよ
とでも言いたげに桜島をじっと見つめていました
頭に留まった雀を追い払うこともせず(笑)

これで、「龍馬とお龍の日本初の新婚旅行」の追っかけは終了です^^
彼らのこの旅は1866年3月16日?4月12日、のこと
龍馬にとって、自然の中で遊び、地元の人情に触れ、お湯に浸り
人生の中で、最もゆっくりと過ごした平和な日々だったことでしょう
しかし、この翌年、刺客に襲われ、享年33歳の若さで命を落とします
日本の維新を見ることなく・・・
もし彼が生きていたら、今の日本はどう変わっていたでしょう
西南戦争は、西郷隆盛を説き伏せて、たぶん起きなかったのではなかろうか
それでは、薩摩藩のお膝元へ参りましょうか
いざいざ^^
<塩浸温泉>
[所在地]鹿児島県霧島市牧園町宿窪田3607
[泉質]重炭酸土類泉
[アクセス]地図はコチラ
<日当山温泉 西郷どん湯>
[所在地]児島県姶良郡隼人町内1462-2
[泉質]炭酸水素・塩化物泉
[アクセス]地図はコチラ
<天保山公園 坂本龍馬新婚の旅碑>
[アクセス]地図はコチラ
テーマ:歴史・文化にふれる旅 - ジャンル:旅行
霧島神社からは、県道60号と470号沿いに走り、こちらへ到着です
<和気神社>
「龍馬とお龍の新婚旅行ゆかりの地」で次に向かったのは
ちょうど藤まつりの真っ最中だった「和気(わけ)神社」です
実はここに来るまでの至るところにお祭りの幟旗が立っていたので
藤の花が有名だと知った程度なんですけどね^^
大きな猪が絵馬を象った壁に描かれています
日本一の絵馬ということです
和気神社の祭神は和気清麻呂公命で、実際に鎮座したのは戦後の1946年なので
龍馬が訪ねた時には、この拝殿があったわけではありません
ただし、当時藩主島津斉彬が日向国・大隅国を視察した折に、この地に松を手植えし
和気公の遺跡調査を行わせ、この地が和気公の配流地であったことが確定しています
拝殿前には狛犬ならぬ狛猪があります
これは配流の際に、宇佐神宮に参詣しようと豊前国に上陸したところ
猪が御輿を守ったとの伝説(「日本後紀」巻八)により
猪が和気清麻呂の守護神とされているためです(Wikipediaより抜粋)
龍馬の足跡も紹介されていました
お参りした後は、藤まつりを覗いてみました
なんとまあ、見事な藤ではありませんか
白、ピンク、紫といろんな種類の藤が植えられています
訪れた皆さんの顔が和んでいるのがよくわかります
この長いコの字型の藤棚で終わりかと思ったら
上にはなんと葡萄園のような藤棚がありましたよ^^
上に展望台があるとのことで、そこへ向かう途中、珍しい光景が^^
上から見た藤棚です
その展望台からは、ニューヨークが見えました
って、見えるかい!!
遠くに薄く少しだけ見えたのは桜島でした^^

<犬飼の滝>
「犬飼の滝」は和気神社の近くにあります
県道470号線の道路脇に「犬飼滝見台」の駐車場がありますが、10台程度で一杯です
ちょっと強引に停めて、上から覗けど、えーっ、身を乗り出しても見えません^^;
でもなんで、滝見台なんてつけるの^^;
乙女への手紙から抜粋(読みやすくしています)
「陰見の滝その滝の布は五〇間も落ちて、中程には少しもさわりなし。
実にこの世の外かと思われ候ほどの珍しき所なり。」
陰見ではなく犬飼ではと、お思いでしょうが
龍馬は地元の人の言う「いんけんのたき」の発音どおりに漢字を宛てたようです
滝は下りるべし!参りましょう^^
うん?滝壺までの案内板、300mと900m?
どっちが本当でしょうか?
遊歩道を下りていくと
轟きが聞こえてきました
そして、その音源の壮大な姿を現しましたよ♪
数日前に雨があったのか、水量が多いような気がします
やはり滝は、滝壺へ下りて、飛沫を浴びるが鉄則です^^
流れ落ちる所が削り取られていますね
龍馬が見た頃はもう少し高かった?
な訳ないか^^
途中、登ってくる同年代のお父さんが息をきらして休んでいたので
ちょっと心配しましたが、歩くとわかりました
5?6分位だったので、300mが正解です^^
皆さん、滝壺までたいしたことはないので、ぜひ下りてみて下さい^^
長くなっちゃいました、お次は明日ということで・・
<和気神社>
「龍馬とお龍の新婚旅行ゆかりの地」で次に向かったのは
ちょうど藤まつりの真っ最中だった「和気(わけ)神社」です
実はここに来るまでの至るところにお祭りの幟旗が立っていたので
藤の花が有名だと知った程度なんですけどね^^



大きな猪が絵馬を象った壁に描かれています
日本一の絵馬ということです

和気神社の祭神は和気清麻呂公命で、実際に鎮座したのは戦後の1946年なので
龍馬が訪ねた時には、この拝殿があったわけではありません
ただし、当時藩主島津斉彬が日向国・大隅国を視察した折に、この地に松を手植えし
和気公の遺跡調査を行わせ、この地が和気公の配流地であったことが確定しています




拝殿前には狛犬ならぬ狛猪があります
これは配流の際に、宇佐神宮に参詣しようと豊前国に上陸したところ
猪が御輿を守ったとの伝説(「日本後紀」巻八)により
猪が和気清麻呂の守護神とされているためです(Wikipediaより抜粋)
龍馬の足跡も紹介されていました



お参りした後は、藤まつりを覗いてみました

なんとまあ、見事な藤ではありませんか
白、ピンク、紫といろんな種類の藤が植えられています
訪れた皆さんの顔が和んでいるのがよくわかります



この長いコの字型の藤棚で終わりかと思ったら
上にはなんと葡萄園のような藤棚がありましたよ^^

上に展望台があるとのことで、そこへ向かう途中、珍しい光景が^^
上から見た藤棚です

その展望台からは、ニューヨークが見えました
って、見えるかい!!

遠くに薄く少しだけ見えたのは桜島でした^^

<犬飼の滝>
「犬飼の滝」は和気神社の近くにあります
県道470号線の道路脇に「犬飼滝見台」の駐車場がありますが、10台程度で一杯です


ちょっと強引に停めて、上から覗けど、えーっ、身を乗り出しても見えません^^;
でもなんで、滝見台なんてつけるの^^;

乙女への手紙から抜粋(読みやすくしています)
「陰見の滝その滝の布は五〇間も落ちて、中程には少しもさわりなし。
実にこの世の外かと思われ候ほどの珍しき所なり。」
陰見ではなく犬飼ではと、お思いでしょうが
龍馬は地元の人の言う「いんけんのたき」の発音どおりに漢字を宛てたようです
滝は下りるべし!参りましょう^^
うん?滝壺までの案内板、300mと900m?
どっちが本当でしょうか?


遊歩道を下りていくと
轟きが聞こえてきました

そして、その音源の壮大な姿を現しましたよ♪


数日前に雨があったのか、水量が多いような気がします
やはり滝は、滝壺へ下りて、飛沫を浴びるが鉄則です^^
流れ落ちる所が削り取られていますね
龍馬が見た頃はもう少し高かった?
な訳ないか^^

途中、登ってくる同年代のお父さんが息をきらして休んでいたので
ちょっと心配しましたが、歩くとわかりました
5?6分位だったので、300mが正解です^^
皆さん、滝壺までたいしたことはないので、ぜひ下りてみて下さい^^
長くなっちゃいました、お次は明日ということで・・
<犬飼の滝>
[所在地]霧島市牧園町犬飼
[高さ]36m
[アクセス]地図はコチラ
<和気神社>
[所在地]鹿児島県霧島市牧園町宿窪田3986
[主祭神]和気清麻呂公命
[アクセス]地図はコチラ
テーマ:歴史・文化にふれる旅 - ジャンル:旅行